春の風

 

      

 

           野中 康行

 

  (日本エッセイストクラブ会員・日産火災出身)


 わが家は盛岡の北、高台の地にほぼ南向きに建っている。玄関から東側の道路には10段ほど階段で下りる。

 西と北側には何もなく、冬は西風と岩手山から吹き下ろす北風が玄関前を吹き抜けていく。そのため、いつも階段が雪の吹きだまりになる。捨てるところがなくてヒトが歩ける程度に雪かきをするが、それも踏み固まって滑りやすくなる。毎冬、新聞配達の方には申し訳なく思っている。雪のなくなるのも遅いが、こんどは枯葉やら枯れ枝が吹き寄せられる。

 

 フクジュソウが消え、クロッカスが咲きだしたある日の昼近く、庭と玄関前を掃除しようと外に出た。熊手で枯葉を掃き集めると、思いのほか伸びたスイセンが現われた。張りついたギボウシの枯葉をはぎ取るが、芽はまだのようだった。

枯れ枝を集め落ち葉を庭の隅に運んでいると、すぐに汗ばんできた。そのとき、風を感じた。顔を背けるような風ではない。心地良い風だった。風向きが違う。東風だ。今まで、何度か吹いたのかもしれないが、今季、私が初めて感じた春の風だった。

 

 窓から見える西の山並みと岩手山の残雪の光に厳しさはなく、おだやかに見える。近くの雑木林は芽がふくらみ赤みをおびて、ところどころ柳の緑が目につく。その向こうに並ぶカラマツが煙るような薄緑になるのもそろそろである。そのうち青空に映えてコブシの花が咲き、それにヤマザクラとヤマブキが続く。そのころになると、庭に続く土手にタンポポやスミレも咲きほこるはずだ。毎年見ている光景だが、待ち遠しい。

 

 「春はあけぼの」といったのは清少納言だ。中国の詩人・蘇軾は、「春宵一刻値千金」と春の夜こそ値千金だといっている。私は宵っ張りだから、あけぼのを見る機会はないし、夜、外に出ることもめったにない。どちらかといえば「春眠暁を覚えず」の方である。

 岩手山の残雪が薄紅色に染まる春の夕暮れも捨てたものではないが、私が春を感じるのは「あけぼの」でも「宵」でもない。何といっても「風」なのである。