暇工作「生涯一課長の一分」

             沈黙は不気味なり


 最近知り合って、気が合いそうと期待していた友人からのメールに「コロナもウクライナの戦禍も早く収まってほしいですね」とあった。暇は「そうですね。私はロシアのウクライナ侵攻を口実に、日本の一部に、力には力でという論調が見られるのを危惧します。それってプーチンの論理と同じですもんね」と返した。ところが、それ以降、その友人からのメールがぷっつり途絶えた。暇の返信を見て思わず息を吞む(ほどの内容でもないのに)姿が脳裏をよぎる。連絡を取り合わなければならない間柄でもあるし、割と饒舌な男だから、突然の沈黙には、やはり理由があるのだろう。そしてその「理由」はおそらく暇の「政治的意見」にあるのだろう。

 「憲法9条守ろう」の署名を100名以上も集めた友人の女性は「呼びかけたたくさんの友人から、その後年賀状が来なくなった。急激に関係が冷えてしまった気がする」という。改憲反対署名の呼びかけ人と交わる「危険性」を察知して身を竦める姿が見えるようだ。

 

 なんなのだろうか、この空気感は。みんな何をそんなに警戒しているのだろうか。「反戦」や「九条守ろう」に反発されることなら別にショックはない。しかし、沈黙には次元を超えた不気味さを覚える。

 言いたいことが言えないとか、言いたいことを我慢しているというより、ひょっとすると沈黙する友人たちには「言いたいこと」などないのではないか、とも思ってしまう。いや、言いたいことを持たないように日頃から身を律しているのではないか。持たないものなら禁じられても別段不自由は感じない。あとは、微量でも危険の匂いがするものには近づかない動物的感覚と人間的知恵さえあれば世間は安穏に渡っていける。

 しかし、そういう態度は安全に思えても、結局は自分を含む社会に独裁や戦争を許してしまうことにつながることは歴史が教える。黙っていることは権力による大きな声を認めてしまうことになって、自分を取り巻く大きな環境が安全ではなくなるということだ。

 

 少数派労組所属で、職場では多数派労組組合員ばかりの環境のなかで過ごした暇は、職場の多数派組合員が、会社や多数派労組幹部に対する批判的意見をほとんど表明しなかった時代をよく知っている。モノは言わない方が安全だったのだ。彼らもまた「言いたいこと」そのものを持たないように努力していた(もちろん、そうでない人もいた)。このことが会社と多数派労組との癒着を深化させ、社員たち自身をますます窮地に追い込んでしまった。職場の雰囲気は暗かった。しかし、会社や多数派労組の支配が揺らぎ始めたのは、少数派労組が配布するビラをきっかけとして、職場の沈黙のバリアが破れたことからだった。

 暇の沈黙嫌いはそうした体験から身についたものだ。うるさくても百家争鳴の社会の方がいい。そのほうが誰かが勝手に悪事を働く余地を狭める。意見の内容にかかわらず、もっと、自分自身を発信すること、自分の思いを隠さず発信する人が多ければ多いほど、それが安全で平和な社会や職場の基盤だと堅く信じている暇である。