守屋 真実 「みんなで歌おうよ」

                     


 もりや・まみ ドイツ在住27年。ドイツ語教師、障がい児指導員、広島被ばく2世。父は元千代田火災勤務の守屋和郎氏 

                   


  不協和音

 

 ロシアのウクライナ侵攻が始まって以来、これまで一緒に活動してきた人の間に不協和音が響いている。そう感じているのは私だけでなく、数人から同じ意見を聞いた。何年も一緒に活動してきた仲間だと思っていた人との間に、実は大きな違いがあったことがこの戦争で改めて明らかになっているようだ。

 

 私と沖縄の仲間たちは好んでウクライナ・カラーを身に着けるし、ウクライナ国歌も歌う。プーチンの暴挙に抗議し、一日も早く戦争を終わらせたいと思うからだ。でも、一部の人はそれを嫌う。メディアに煽られて感情的になっているだけだと言う人もいる。喧嘩両成敗的に中立の立場をとることが冷静で理性的なように振舞う人もいる。ウクライナ国歌を歌うことは、民族主義を助長すると言う人もいる。人間ってこんなに違うのかと、今さらながら驚いている。

 もちろんメディアの報道がどこまで本当か注意する必要はあるけれど、感情は行動の根源であると私は思う。戦禍に苦しむ人を見て「かわいそうだ」と感じることが最初の動機であり、人道主義とか反戦主義といった思想はその後から来るものだ。感情に流されてはいけないけれど、感性を知性よりも下位に置く社会が、人の苦しみに目を向けないサイコパス政治を生み出したのだと思う。ウクライナが完璧に善であるとは言えないかもしれないが、非軍事施設や非戦闘員をも攻撃するロシアと「どっちもどっち」とは決して言えない。現に子どもや老人や妊婦が殺されているのに中立がクールであるかのようにふるまい傍観する人こそ非人道的ではないのか。

 それに、私は理性的な民族主義というものがあり得ると思う。スイスはドイツ語圏とフランス語圏があるけれど、それでも平和裏に一つの国家を形成しているし、カナダもそうだ。南アフリカに至っては五つの公用語があり、それぞれの民族を象徴する五色の国旗だ。かつてあれほどひどい人種隔離政策をとってきた国でも、尊重し合い共生していくことを可能にしたのだから、民族意識を持つことが分断につながるとは限らないはずだ。むしろ日本人は民族としての意識も誇りもなさすぎると思う。だからアメリカの植民地のようにされても、悔しいとも恥ずかしいとも思わないのだ。日本人は上から押し付けられた「万世一系の皇国臣民」という民族意識しか教えられなかったから民族意識=排他主義のように思う人もいるが、本当の民族意識とは住み慣れた土地で、住み慣れた言語や文化・習慣を愛し継承していくという生活に根差したもので、決して他の民族を排除することではない。

 

 と、私なりに言い分はあるのだが、そもそも議論が成り立たない。ウクライナ・カラーの私を横目でにらんで、あるいは無視して陰であれこれ言うだけで、本人に話しかけてこないからだ。ひと言「違う色のマスクにしてもらえませんか」と言えば話し合いが始まるのに。つくづく日本は民主主義の育たない国だと思う。

 

 私たちは歴史の分岐点に生きている。人はみんな違っていて良い。ただ、話し合いお互いを認め合う努力をするべきではないか。壊憲や軍備増強が声高に話される今、九条を守る勢力が反目し合ってどうする!今こそ平和を願うすべての人が最大限に結集する時ではないか!