斎藤貴男「レジスタンスのすすめ」


 

 

    私たちが考え続けるべきこと

 

 

 ロシアによるウクライナ侵攻は泥沼化するのだろうか。プーチン大統領は核兵器の使用さえ示唆した。日米欧サイドで流通している情報に拠る限り、ロシア側に非があるのは疑いようもない。経済制裁は当然だ。かといって〃窮鼠猫を噛む〃ような状態に追い込んでもいけない。国際社会の成熟度が試される。

 ただ、気になって仕方がないことがある。プーチンの暴挙を難じる際、「冷戦後の世界秩序に対する挑戦」だと、安易に語られ過ぎてはいないか。

 戦後の世界秩序。一見わかりやすそうな概念が、しかし具体的にどのようなもので、そもそも絶対的な正義なのか否か、私たちはどれほど理解しているというのだろうか。

 もちろん、多くの場合、いわゆるパックス・アメリカーナ(超大国・米国の覇権による平和維持)を指しているのは自明だ。なるほどソ連崩壊後の過去30余年が、冷戦時代より核戦争の危機から遠いように見えていたのは、確かなのかもしれない。

 とはいえ、無条件で肯定されるべき秩序でもないだろう。イラクやアフガンにおける米軍の振る舞いと、今回のロシア軍との間に、いかほどの差があるものか。

 9・11同時多発テロの報復という大義名分があったから〃正しい〃のか。覇権国家米国の行為だから〃正しい〃のか。

 米軍に殺された人々のほぼ全員は、テロとは縁もゆかりもない人々だった。ロシアも米国も、犠牲者にとっては同じである。

 理屈をいくら振り回してみても、ウクライナの人々が救われるわけでもないことぐらい承知している。だが、とりあえず安全圏にいる私たちは、このあたりの問題も深く考え、解を導き出す努力を怠ってはならないと思う。

 でなければプーチンに己を正当化する余地を残しかねない。彼に続こうとしているかもしれない人物や勢力にも、である。