守屋 真実 「みんなで歌おうよ」

                     


 もりや・まみ ドイツ在住27年。ドイツ語教師、障がい児指導員、広島被ばく2世。父は元千代田火災勤務の守屋和郎氏 

                   


 1月28日で無事10日間の自宅療養を終え、翌週金曜日からまた官邸前、経産省前行動に復帰しました。たくさんの人が「元気になって良かった」と声をかけてくれました。ご心配いただいた読者の皆様にも、この場を借りて御礼申し上げます。

 症状や同居している母親のことなど多くの人に尋ねられたので、ここでお知らせしておこうと思います。

 

 私の場合は、その日の午前中には市販の抗原検査キットで陰性だったのだが、夜になって突然身震いするような悪寒が走った。測ってみたら微熱だったけれど、すでに職場で2名の陽性者が出ていたので発熱外来を予約した。翌朝には平熱に下がっており、少し喉が痛かっただけで、コロナの時期でなかったら市販の風邪薬でも飲んで出勤しただろうと思うくらいの症状だった。でも、病院で抗原検査を受けたら、1分もかからないほどで陽性反応が出た。なるほど、だから危ないのだなと思った。本人に自覚症状がないまま普通に生活して、周囲の人にもうつしてしまうのだ。職場では、私の後にも4人の児童が陽性になり、スタッフ2人、子ども6人が感染してしまった。もしかしたら、症状が出ていない者もあるかもしれない。

 ワクチン接種から取り残されて2回目が9月だったのが逆に幸いしたのか、一晩の発熱と三日間の喉の痛みだけという軽症ですんだ。自宅療養の後半は、働いている人に申し訳ないくらい元気で、家の中で体操やストレッチをしていたくらいだ。でも、鼻と喉がつながっているあたりに今でも違和感があるのは後遺症なのかもしれない。

 それでも、一月の中旬に感染した私は、まだ運が良かった方だと思う。その時点では、保健所も医療機関も二月に入ってからほど逼迫しておらず、きちんと検査してもらえたからだ。インターネットの健康観察の他、病院からは毎日状態把握の電話がかかって来た。保健所からパルスオキシメーターも借りられたし(届いたのは陽性確認から4日後だったけれど)、食料や日用品の支援物資も送ってもらえた。職場で最初の陽性者が出た時点で母を姉夫婦の家に避難させてもらっていたので、私一人で家に籠ることができ、90歳の母に感染させずに済んだのは幸いだったし、経済的損失なく乗り越えられたのは前回書いたとおりである。

 その一週間後、爆発的に感染者が増えた。「みなし陽性」などという杜撰な対応しかしてもらえない人たちは、どれほどの支援を受けられるのだろうか。休業補償はどうなっているのだろうか。ネットが使えない人や、電話の対応が難しい聴力障がい者などはどうやって健康観察してもらえるのだろう。コロナ禍を理解できない知的障がい者や認知症の高齢者がいる家庭はどうしているのだろう。子ども食堂に行けなくてひもじい思いをしている子供がいるのではないか、フードバンクに行きたくても外出できない人がいるのではないか。これで自然災害や原発事故が起きたらどうするのだ?…などと考えて過ごした10日間だった。

 

 岸田首相は「コロナには最悪の事態を想定して対応する」などと豪語していたが、一日に200人以上もの人が亡くなる状況を想定できなかったのだとしたら危機管理能力は全くない。壊憲や軍備増強のことしか考えられない人にこの国のかじ取りを任せていては破滅だ。運の良し悪しだけで人の命が左右されていいはずがない。運の悪い人をこそ救済するのが政府の責任ではないか。なんとしても政権を変えたい!変えなければ!