昭和サラリーマンの追憶

 

 

    「共同富裕」「塾叩き」、そして「能力の専制」について

      

 

           前田 功


  中国のやることはすべて「よろしくないこと」「怪しからんこと」と叩く。褒めたりしたら袋叩き。昭和13年~14年、太平洋戦争開戦が近いころも、中国とアメリカの違いはあれこんな雰囲気だったのかなと思う。そんな雰囲気を感じる昨今だが、「非国民」との非難を覚悟で敢えて書く。

 

 現役時代に中国に勤務し、現在も中国ビジネスに関わっている知人の話によると、彼が接した中国人の多くが、「この国に生まれてよかった」と語っていたという。

 今年の正月、BS1で「サンデル教授の白熱教室」を見た。日本は東大、アメリカはハーバード、中国は復旦大学、と超エリート校の学生たちが出ていた。中国の学生たちの弁は、知人の言うとおりだった。中国は独裁政権だ。誰もが見ることができるテレビの場で国を批判することなどできないという見方もあるだろうが、彼らは論理的で、本当に自国の政府を信頼しているように私には受け取れた。

 

 習近平は「共同富裕」という言葉で、格差是正を強調している。日米中どの国でも格差と分断は大きな社会問題だ。

 中国共産党は100年前から「貧富の格差を是正し、すべての人が豊かになることを目指す」というスローガンを掲げていたが、鄧小平の時代に資本主義を取り入れ、結果、貧富の差が広がった。現在では、資産で言うと上位1%が3割、上位10%が資産の7割を持ち、下位50%は6%しか持っておらず、アメリカや日本と似たような格差社会になっている。

 習近平は従来よりも一歩踏み込む形で「高すぎる所得を合理的に調節し、高所得層と企業が社会にさらに多くを還元することを奨励する」と述べ、所得の高い人や大手企業に寄付などを促した。「儲ける」ことが正義だという強欲資本主義をなんとかしようという意思が明確だ。

 日本では、岸田政権は「新しい資本主義」などとは言っているが、中身がまったくない。米国のバイデン政権も、格差による社会の分断には苦しんではいるが、資本主義を制御する妙策は出していない。

 

 「格差」は今あるそれも問題だが、それが固定し世襲されていくことがより大きな問題だ。そこには「教育」が関連してくる。習の「塾」攻撃はそこを突いている。

 教育には「公教育」と「私教育」の二つがある。「私教育」とは大人が自分や関係する子供に対して自由に行っているもので、家庭教育・塾や予備校などの教育がそれである。

 筆者が若かった頃はそうでもなかったが、今や、大学それも名の知れた大学へ行くことは、上記「私教育」に頼らなければできない状態になってしまっている。この「私教育」は、親に恵まれなければ受けることはできない。(私立や国立の小中学校や中高一貫校は形式上は公教育に分類されるのだろうが、実質は「私教育」というべきだろう)

 大学も公教育に分類され、特に超有名大学には多額の国のカネが注ぎ込まれている。そこに行くには、「私教育」を受けなければほぼ不可能。文科省に言わせると、「高校(公教育)を卒業しておれば入ることができる」と答えるだろうが、それはタテマエ。そう答える官僚自身、上記私教育にお世話になってきている。現在活躍している官僚、大企業エリート、大学教授、テレビのコメンテーターなどいわゆる勝ち組のほとんどは、裕福で教育熱心な親に恵まれ、家庭教師をつけてもらったり、塾・予備校に通ったり、あるいは有名中高一貫校に通ったりして育っている。まさに「親ガチャ」だ。親に恵まれなければ、勝ち組にはなれない。格差の世襲であり、固定化だ。

 サンデル教授は昨年「実力も運のうち 能力主義は正義か?」(原題は“The Tyranny of Merit”、直訳すれば「能力の専制」)という本を出し、「能力主義」を厳しく批判した。上記勝ち組である日本の識者たちはそれを評価もしなければ批判もしていない。私には無視しているように見える。「あんたは自分の実力は自分の努力の結果だと思っているのだろうが、親ガチャで当たっただけだ」と指摘されて面白くないのだろう。日頃、思いやりだとかヒューマニズムだとか、かっこいいことを言っているが、それは自分と関係のない場合だけ熱く語られるだけで、問題が自分に直に降りかかってくると、直ちに他者への思いやりを失くしてしまうのだ。

 

 力を持った者が、「共同富裕」「塾への攻撃」のような対応をすることで、資本主義も風向きが変わり、格差や分断を緩和することができるのではないか。

 こういったことは共産党独裁の国でなければできないことなんだろうか。