斎藤貴男「レジスタンスのすすめ」


 

 

  「SDGs」は隠れみのか

 

 

 SDGs(持続可能な開発目標)という言葉が耳について離れない。マスメディアをはじめ、誰も彼もがまるで絶対的な正義みたいに、「エスディージーズ」を叫んでいる。

 もともとは2015年の国連サミットで採択された、向こう15年間に渡る17の国際目標だ。地球環境に配慮し、多様性と包摂性のある社会を実現しようという。政府や自治体だけでなく、企業や個人など、市民社会全体で取り組むべき営みだとされている。

 基本的に悪いことではないと思う。「貧困をなくそう」「ジェンダー平等を実現しよう」「平和と公正をすべての人に」といった目標群は、どれも素晴らしい。と同時に、どうにも胡散臭く感じられもするのは、ひとり私だけだろうか。

 たとえば日本の、政府のSDGs推進本部が昨年12月にまとめた「SDGsアクションプラン2021」。そこには以下のような重点事項が列挙されているのだが――。「Society5・0の実現」「デジタルトランスフォーメーションを推進」「新たな日常の定着・加速」「生産性向上を通じた経済成長」「教育のデジタル・リモート化を進める」。

 なんだか妙だ。かねて政府や大企業の悲願で、しかし多くの弊害を伴うため、賛否両論が繰り広げられてきたテーマばかり。それが、SDGsの装いで絶対的な正義然と打ち出されてくる、とは。外務省地球規模課題審議官・鈴木秀生名で公開された「SDGs達成に向けた日本政府の取組」という文書には、「SDGs推進は、大きな成長と利益のチャンスをもたらす」ともうたわれている。

 何のことはない。SDGsとはとどのつまり、グローバル資本にとってより都合のよい世界秩序への、新たな再編成を図るための隠れみのこそが正体なのではあるまいか。

岸田文雄新政権が掲げる「新しい資本主義」とやらを読み解くカギにもなりそうだ。