守屋 真実 「みんなで歌おうよ」

                     


 もりや・まみ ドイツ在住27年。ドイツ語教師、障がい児指導員、広島被ばく2世。父は元千代田火災勤務の守屋和郎氏 

                   


 「民族の…」

 

 辺野古の土砂投入が始まってもうじき丸四年になる。雨でも風でも日照りでも、コロナ禍になっても毎週首相官邸前で抗議行動を続けてきた。最近は固定メンバー6人、その内沖縄出身者は2名で定着している。天候や体調に合わせて時々参加してくれる人が4~5名いる。抗議行動を長く続けなければならないのは本当は喜べないことだけれど、やはり丸X年という節目が近づくと、みんなで頑張って来たなと充実感を覚える。

 

 先日、このメンバーの中でちょっとした議論があった。『沖縄を返せ』の歌詞で「民族の怒りに燃える島」という部分を辺野古のゲート前では「県民の怒りに燃える島」と歌っているから、そのように変えてはどうかと沖縄出身の人が言ったからだ。

 私はこの提案に強い違和感を感じた。私は沖縄県民ではないから、沖縄の人々の悲しみや怒りをまったく同じに感じることはできないだろう。それでも、琉球処分以来日本政府が何度もくり返して沖縄を差別し、誇りを傷つけ、人権を奪ってきた歴史に同じ人間として怒っている。沖縄戦被害者に対する同情だけではない。沖縄は、アメリカ従属をやめ日本の主権を取り戻し、地方の自治権を守り、憲法9条を守る闘いの最前線なのだから、本土の人間も自分のこととして怒るべきだ。現に新聞の意見広告運動に見られるように、本土からも多くの人が支援している。「県民の」と歌うと、沖縄の側から沖縄と本土の間に一線を画されたように感じてしまうといった意見を述べた。

 そこで、何か代わりになるいい言葉はないか考えた。

 国民の?-国家にこだわりたくないし、残念ながら国民の多くは怒っていない。

 人民の?-なんだか中国共産党みたい。

 民衆の?-ちょっと語呂が悪いかな・・・・

 

 結果から言うと、「やっぱり元のままでいいんじゃない」ということで決着した。もし誰かがより適切な言葉を思いついたら、その時変えようということになったのだが、一つ一つの言葉を突き詰めて考えるなんて、日本人は真面目で勤勉だなと改めて思った。ただ、物事を深く考えるあまり視野がミクロになり、結果として人々を分断することになっては市民活動にとってマイナスだ。思考はマクロに人をつなぐためにこそ役立てるべきだ。沖縄出身の人が「民族」という言葉にこだわりを持つのは、『沖縄を返せ』が作られた頃よりもウチナーとヤマトの分断が大きくなっているからなのかもしれない。当時は双方が沖縄の「祖国復帰」を切望したのに、その「祖国」は今もって、いや、またしても沖縄を国防の盾に利用しようとしているのだから。

 

 でも、こういうやり取りがあったからと言って私たちの活動に亀裂が入ったわけではない。むしろ率直に話し合えて良かったと思う。馴れ合わず、反目せず、互いに意見を言い合える関係を作れたことをうれしく思う。辺野古新基地建設を止めるまで、これからも闘いは続く。