松久 染緒 政治リスク保険

 


 ロシア・台湾の地政学リスクで保険契約の縮小も

 

 「リスクのあるところ保険あり」で、貨物海上保険や船舶保険の戦争保険は有名だが、戦争や革命のリスクを補償する企業向けの「政治リスク保険」というものがある。企業の施設が軍事攻撃で損傷したり、戦争による経済封鎖によって製品の出荷が妨げられたりした場合に保険金を払う。他の保険では対応できないリスクを補償する特殊保険の一種で、主として商社やメーカーに加え、新興国で事業融資を手がける金融機関などが加入する。

1980年前後の米AIGの参入を皮切りに、スイスに本社を置くチャブ、仏アクサなど海外大手がこの政治リスク保険の分野に相次ぎ参入してきた。保険関係者によると、政治リスク保険の支払実績は「まれに高額となるが、基本的にゼロの年が多い。収入保険料に対する支払保険金の割合は平均で25%程度」と少なく、従来いわば「もうかる保険」ととらえられてきた。

 ところが、ウクライナに侵攻したロシア政府が日本の天然ガスの大きな供給元である「サハリン2」の運営を新法人に移管する方針を示して以降、保険業界に動揺が広がっている。

 

 「政治リスク保険」の引受限度額の合計が2022年、3年ぶりに減少に転じた。ウクライナに侵攻したロシアに絡む契約が事実上、不可能となるほか、台湾有事が現実味を増して中国や台湾向けも引き受けが難しくなっている。企業と損害保険会社は過去約20年間にわたり新興国への投資リスクが低下したとみてきたが、ここにきていわゆる「地政学リスク」の高まりで転換点を迎えている。

保険会社は企業が外国政府と良好な関係を構築できているかを見極め、同国での取引実績や貿易年数などをもとに契約の可否や支払限度額を判断する。米保険仲介のマーシュによると、世界の引受限度額は21年までの約20年間で5倍近くに増え、約32億5000万ドル(約4387億円)に達した。

 だが、ウクライナ情勢を受け「保険料率の上下ではなく、リスクそのものを除外する動きが出ている」(損保大手幹部)。更改時に従来の支払限度額を縮小する動きも出ており、マーシュの22年7月調査では世界の引受限度額は前年比約5000万ドル減と減少に転じた。

 

 さらに、ロシアのウクライナ侵攻による支払増加を見込み、各国の保険会社は損失に向けて準備金の引き当てを始めた。スイス再保険は22年1~6月期までに戦争の影響に備えて2億8300万ドルの準備金を計上し、MS&ADホールディングスも戦争による被害を補償する保険を中心に約148億円の準備金を積み立てた。

 マーシュが手がける各国の政治リスクの定点観測によると、ロシアは22年8月時点で「国の信用リスク」「為替交換/送金リスク」「国の契約不履行」が最大10ポイント中、前年比で2ポイント前後上昇した。今後、経済制裁に伴う送金不能による取引の不成立を対象にした政治リスク保険の支払額がかさむ可能性がある。ロシア政府が6月に極東の石油・天然ガス開発事業「サハリン2」の運営を新設する法人に移管する方針を示したことも衝撃を与えた。三菱商事などが出資する現在の運営会社の資産は無償譲渡となる方向。ロシアの矛先が同国から撤退する英国などの企業の資産でなく、関与を継続したい企業にも向かったのが「想定外だった」(保険関係者)。ウクライナにおける地政学リスクの高まりは、世界の企業に台湾有事も連想させた。政治リスク保険に詳しいマーシュの須知義弘シニアバイスプレジデントは「今夏から中国や台湾を対象にした政治リスク保険の駆け込み需要が起きていた」と指摘する。ある保険会社は台湾の風力発電への事業投資を検討する機関投資家から約10億ドルの補償を求められたという。こうした駆け込み需要を当初、保険会社は受け入れていたという。ただ、ペロシ米下院議長の8月初旬の訪台による台湾情勢の緊迫化で「台湾や中国向けのリスクも引き受けが厳しくなってきている」(マーシュの須知氏)。企業が政治リスク保険の支払限度額を縮小されたり、地域によっては引き受けられなくなれば、今後、海外事業からの撤退を余儀なくされる企業が増える可能性がある。

(日経電子版2022/8/18による)