今月のイチオシ本


近松門左衛門『曽根崎心中 冥途の飛脚』(岩波文庫)

 

               

                       岡本 敏則

 


 TBSラジオ「永六輔土曜ワイド」があったころ、時々文楽の豊竹咲太夫がゲスト出演していた。大阪日本橋の国立文楽劇場は定期公演しているが「お客はんはわざわざ新幹線で来はる東京のお方、大阪人はほとんど来ません。大阪の文化は阪神タイガース」と冗談ぽく言っていた。今回は浄瑠璃作家近松門左衛門を取り上げる。近松門左衛門(1653~1724)は越前国吉江藩士の次男として生まれ、本名を杉森信盛という。しかし父が浪人し信盛は京に出て公家などに仕えたあと芸能の世界へ。浄瑠璃の語り手竹本義太夫(1651~1714)、三味線の竹沢権右衛門等と大阪道頓堀に「竹本座」(1684~1767)を旗揚げし座付作家となった。時は5代将軍綱吉、元禄(1688~1703)宝永(1704~1710)正徳(1711~1715)の時代に活躍した。元禄15年の暮れには旧赤穂藩士が吉良邸へ討ち入り、翌16年には大阪曽根崎新地の開発が始まった。人形浄瑠璃は語り手の太夫、三味線弾き、人形遣いからなるが、近松の初期の時代、人形は一人遣いで、正徳ごろから3人遣いになり現在に至っている。近松の代表作は『心中天の網島』『曽根崎心中』『冥途の飛脚』等があり、「お染久松」の『新版歌祭文~野崎村』(安永9年1780年)の作者は近松半二。浄瑠璃は七五調のリズムで、読んでいて気持ちがいいのだから語りで聞けばなおさらであろう。例えば『曽根崎心中』の出だし。「げにや安楽世界より 今比(きょうび)の娑婆に示現して われらがための観世音 仰ぐも高し高き屋に 登りて民の賑ひを 契り置きてし難波津や」。そういえば「男はつらいよ」の寅さんの口上も七五調だった。「四谷赤坂麹町 ちゃらちゃら流れるお茶の水 粋な姉ちゃん立ちしょんべん 白く咲いたか百合の花 四角四面は豆腐屋の娘 色は白いが水臭い」。それと心中物での修羅場の描写。「二三度ひらめく剣の刃 あっとばかりに喉笛に ぐっと通るが南無阿弥陀 南無阿弥陀仏と くり通しくり通す」「剃刀取って のどに突立て 束も折れよ刃も砕けとゑぐり くりくり目もくるめき 苦しむ息も暁の 知死期につれて絶果(たえは)てたり」。これでもかとやらないと当時の客は満足しなかったのであろうか。

 

 近松の数ある浄瑠璃の中から『堀川波鼓』(ほりかわなみのつづみ)のさわりを。

 上演、宝永4年(1707)2月15日竹本座、動機で分類すれば姦通物、結果で分類すれば女敵討物。浄瑠璃の構成は上巻、中巻、下巻と3場となる。上巻、所は因州(因幡鳥取藩)、登場人物はおたね(30半ば過ぎ夫彦九郎は参勤交代で江戸詰め)、妹おふじ、一子文六(おたねの実弟の子で養子)、家中の謡・鼓の師匠(文六も弟子)として1年半滞在している宮地源右衛門。おたねは酒好きで酒癖もよくない、今宵も源右衛門相手に酒宴。「おたね源右衛門の手をしかと取り 両手を廻して男の帯 ほどけば解くる人心 酒と色とに気も乱れ 互いに締めつ締められつつ 思わず誠の恋となり」。門の戸を叩く音におたねはっとなり「酒の酔ひさめ目もさめて 我が身を見れば帯紐解き男と添ひし乱床 酒に酔い夢現共弁へず(ゆめうつつともわきまえず) 酒を止まれと常々に 妹が意見を聞き入れず わが妻ならで一生にて 未来はおろか此の世の恥」。源右衛門も目をさまし、これも同じく酔い紛れ、男たる身の道を背く「はっと目を見合わせ 互いに恥ずかし恥ずかしと 面はゆげにも泪ぐみ 差俯いてぞいたりける」

 中巻 鳥取彦九郎の屋敷。藩主お国入りの行列の描写があり、彦九郎帰宅。皆に江戸土産を披露する。しかしおたねの密通は家中でも評判で、彦九郎が知ったならどう処断するかで家中は持ち切り。妹おふじの口から彦九郎聞かされ「証拠を出せ」と。おふじ「ヲヽ証拠までもないことよ 此の(おたねの)お腹には四月に成る子は誰が子にて候ぞ 下女のりんに買はせられし堕薬(おろしぐすり)は誰が飲むぞ 人は知らぬようなれど 家中一ぱい是沙汰で 今も今もとて」とうとう露見して、おたね「胸押し開けば九寸五分 肝先に切羽まで 刺し通してぞいたりける あはれ成りける覚悟なり 彦九郎刀を抜き 取って引き寄せぐっと刺し 返す刀に止めを刺し 死骸押しやり刀を拭い しづしづしまふて立ったりし 武士の仕方のすヽどさよ」。一子文六、妹おふじ、彦九郎妹ゆら「三人一所に手を合わせ声を上げて泣きければ」、彦九郎「さほど母姉兄嫁を 大切に思ふ程ならば など最前に衣を着せ 尼にせんとて命おば なぜに貰ふてはくれざりし」と、空しき亡骸に抱き付き「わつとさけび入りければ残る人々諸共に泪も連れて立出づる。ものヽ哀れや武士の身こそあだ成る習ひなれ」。

 下巻は、彦九郎、文六、おふじ、ゆら四人、京都堀川下立売、源右衛門の屋敷でみごとおたねの敵討ちを果たし、幕となる。

 

*江戸時代の不義密通=妻の不義密通を知った夫は、妻と相手の男(間夫)を殺害しても罪に問われなかった。しかし両者を殺害しなければならず妻だけ生かすと「未練」と言われた。