曽田 英夫 てつどう歴史散歩

 

 第9回 電車特急「こだま」デビュー

 

 もう60年ほど前の話ですが、夏休みに当時住んでいた京都から父親のふるさとである鳥取県米子市へ、父と兄弟3人の4人で帰省しようということとなりました。

 列車は夜行の普通列車下関行で、早くから並び、客車のボックスシートの一角を獲得できて、足を伸ばせば寝れなくはありませんでした。発車しました。客車を牽引するのは蒸気機関車でした。夜とはいえ暑く、冷房もないので窓を開けて夜風を入れます。トンネルに入る汽笛が聞こえると一斉に窓を閉めますが、時々閉め忘れ、閉め遅れる客がいて、煙が車内に充満し、灰色の霧がなかなか消えませんでした。………このような旅でした。

 しかし、今ならば煙に悩まされることなく、快適に旅を続けることができます。それは戦後「無煙化」を目指して車両の近代化が果たされたからでしょう。

 昭和30年初めでは、特急列車は東京~大阪間「つばめ」「はと」、京都~博多間「かもめ」の3往復でした。昭和31年(1956)11月19日東海道本線電化完成による時刻表改正により、東京~博多間に特急「あさかぜ」を新設し、戦後4本目の特急列車となりました。翌32年(1957)10月1日には東京~長崎間特急「さちかぜ」を新設しています。 

 昭和33年(1958)10月1日、客車が近代化され、「ブルートレイン」と呼ばれる特急用固定編成客車(20系)が完成し、「あさかぜ」に使用を開始しました。関西を深夜に通過するダイヤで、下り東京発18時30分、博多着11時40分、上り博多発16時50分、東京着10時で、この時の編成は次の通りです。 

 この時点では座席車もありますが、後に全部寝台車の編成に変わっていきます。この改正では東京~鹿児島間特急「はやぶさ」が新設され、東京~長崎間「さちかぜ」は「平和」と改称されました。

 以後、34年(1959)7月20日特急「平和」がブルートレイン化され「さくら」と改称されています。さらに35年7月20日特急「はやぶさ」もブルートレインとなると同時に、東京~西鹿児島(現・鹿児島中央)間に変更されています。

 以降、夜行特急は不定期特急時代の「みずほ」を除き、ブルートレインとなりました。

 「あさかぜ」近代化の翌月、昭和33年(1958)11月1日、電車特急で「ビジネス特急」として一世を風靡した特急「こだま」2往復が登場しました。時刻表は次の通りです。

 

 東京~大阪間は6時間50分にスピードアップされました。因みに客車列車であった特急「つばめ」は7時間30分だったので、いかに早かったかが分かります。さらに下り「第1こだま」、上り「第2こだま」に乗れば、大阪滞在2時間10分で日帰りが可能となりました。それで「こだま」という列車名はぴったりだったと思います。電車(151系)はボンネットタイプで「流線型」、いままでにないクリームと赤の明るい二色で「ツートーンカラー」という言葉が斬新さを醸し出していました。編成は2等車2両、3等車4両、3等、「ビュフェ」合造車2両であり、座席車は全車座席指定でした。「ビュフェ」はスタンド式の食堂でこれも斬新でした。その後昭和35年6月1日より「食堂車」が連結されました。

 

 客車、電車の近代化に対して気動車の近代化は2年ほど遅れました。それは昭和35年(1960)12月10日で上野~青森間特急「はつかり」が客車から気動車(80系)になりました。「はつかり」は33年(1958)10月10日に新設されて2年後に気動車化されました。気動車はその後すぐに「はつかり改良型」(80系82型)に改良され、36年(1961)10月1日時刻改正では特急列車を18本から52本へ増発され、特急列車網拡大の原動力となり、そのとき登場した気動車特急は、京都~長崎・宮崎間「かもめ」、大阪~博多間「みどり」(12月15日運転開始)、大阪~広島間「へいわ」、京都~松江間「まつかぜ」、大阪~青森・上野間「白鳥」、上野~仙台間「ひばり」(不定期・翌年4月27日運転開始)、上野~秋田間「つばさ」、函館~旭川間「おおぞら」の各列車でした。このあと、特急列車は急速に増えていきました。