曽田 英夫 てつどう歴史散歩

 

     第8回 戦後の鉄道復興

 

 連合軍専用列車

 終戦後、鉄道は戦争による被害から復興を遂げていきました。ここでは進駐軍の列車と鉄道の復興について書いてみたいと思います。

 昭和20年(1945)8月15日に太平洋戦争は終結しました。連合軍はマッカーサー元帥を最高司令官とする総司令部(GHQ)を設置し、間接統治を開始しました。鉄道では優良な車両を接収し、改造し、当時の一等車と同じ白帯を施していました。それらの車両で「連合軍専用列車」を設定し、それらは次の各列車でした。昭和21年(1946)1月31日に東京~門司間1005・1006列車「Allied Limited(アライド・リミテッド)」所要時間24時間50分、同年3月13日に東京~博多間1001・1002列車「Dixie Limited(デキシー・リミテッド)」所要時間27時間36分、同年4月22日に上野~札幌間(青森~函館間は航送)1201・1202列車「Yankie Limited (ヤンキー・リミテッド)」所要時間33時間が運転を開始しました。それ以外にも曜日指定や病院列車などが運転され、米軍高官用特別専用列車として「Octagonian(オクタゴニアン)」「Coronet(コロネット)」「Ambassader(アンバサダー)」の三本があり、必要に応じてお召し列車に準じて運転されました。

 

 特急列車復活

 さて、わが国の鉄道は昭和24年(1949)6月1日に公共企業体「日本国有鉄道」として発足しました。その3ヶ月後の同年9月15日に時刻改正が実施され、ほぼ5年ぶりに特急列車が復活しました。それは東京~大阪間特急「へいわ」で同区間を9時間と戦前の御殿場経由の所要時間にも及びませんでした。その時に東京~大阪間の夜行急行に「銀河」が命名されています。なお、特急「へいわ」は3ヶ月半後の昭和25年(1950)1月1日に「つばめ」に改称されました。

 余談ですが、「へいわ」という列車名はその後、昭和33年(1958)10月1日に東京~長崎間特急「平和」として登場しましたが、翌34年(1959)7月20日には「さくら」に改称されました。さらに36年(1961)10月1日時刻改正で大阪~広島間特急「へいわ」として登場しましたが、翌37年(1962)6月10日広島電化の時刻改正で消えました。以上より「へいわ」という列車名は三度登場しながら、三度とも1年間も続かない、誠に不幸な列車名といえるでしょう。

 昭和25年11月8日、急行列車にも列車名を付けることとなり、次の様な列車名が誕生しました。東京~大阪間「明星」「彗星」、東京~広島間「安芸」、東京~博多間「筑紫」、東京~熊本間「阿蘇」、東京~鹿児島間「霧島」、東京~長崎間「雲仙」、上野~仙台間「青葉」、

上野~青森間「みちのく」「北斗」、大阪~青森間「日本海」、上野~金沢間「北陸」でした。その後すぐに東京~湊町間「大和」、東京~宇野・大社間「せと」「出雲」が命名されています。

 

 戦後初めての特急列車が運転を開始しました。『時刻表』では列車名の記載はありません。特急は「へいわ」、急行15・16列車は「銀河」と命名されました。

(『時刻表』昭和24年9月号 日本交通公社)


 特殊列車

 昭和27年(1952)4月28日に対日講和条約が発効し、わが国は独立を回復しました。そのために前記の「連合軍専用列車」はその月から「特殊列車」と改称されました。

 『時刻表』昭和27年5月号では「特殊列車運転」として「4月1日から 下記臨時列車が一定の制限の下に運転することになりました。この列車の利用の際は車内の秩序、整頓、清潔等特に御留意願います。」というきびしい注意書きが書かれています。それらの列車は次の通りです。急行東京~佐世保間1001・1002、1005・1006列車、急行横浜~札幌間1201・1202列車でした。なお、1001・1002列車では東京~大阪間に日本人向けに三等車を増結し、29年(1954)8月1日に1005・1006列車は東京~博多間に短縮されています。その翌々月の10月1日に「特殊列車」に列車名がつけられ、急行東京~佐世保間1001・1002列車は「西海」、東京~博多間1005・1006列車は「早鞆(はやとも)」、東京~青森間1201・1202列車は「十和田」、函館~札幌間1201・1202列車は「洞爺(とうや)」と命名されました。 

 

 そして、31年(1956)11月19日に各列車は一般の急行列車となり、「早鞆」は「筑紫(つくし)」、「洞爺」は「すずらん」と改称されたが、11年にわたる国鉄の戦後がようやく終ることとなりました。 

  

 「特殊列車」の運転が開始された時の『時刻表』の表示です。「時刻表の見方」では「特殊列車」として、1・2等急行券の発売枚数らは制限があること。「ニュース」では4月1日から特殊列車が運転されることを報じています。本文では列車の時刻が掲示されています。(『時刻表』昭和27年5月号 日本交通公社)

 


(7月号への萬澤武夫さんからのメッセ―ジ)

  鉄道の不幸な歴史はなんと言っても戦争を抜きには語れません。戦時中だけでなく、戦後もしばらくは満足な運行は出来なかっただけでなく、大事故や下山事件、三鷹事件、松川事件など占領下の不幸な出来事は忘れることはできません。桜木町事件は子供の頃、まだテレビがない時代でしたが、「サン写真新聞」の記事を見てショックを受けました。

 さて、曽田先生の記事で昭和22年1月のダイヤで東京から博多間が32時間半!とは驚きました。石炭事情の悪化で速度が出なかったのでしょうか。それだけではなく、機関車の老朽化も激しかったのでしょう。

 興味を惹かれるのは乗客の姿です。当時の写真が一枚ありました。ぼろい木造客車がホームにいます。復員兵、引揚者、買出しなど、大きな荷物を抱えています。窓や、ドアは壊れギュウギュウ詰めの超満員!いや、無法地帯です。窓から足を出している人も。屋根にも登り、乗り切れない人は貨車も動員したそうです。これでは子供や女性は乗れるはずがないと、思いきや。なんとホームに数人の女性が、一人は赤ん坊を背負っています。なんとも逞しい庶民の姿です。