曽田 英夫 てつどう歴史散歩

 

     第7回 戦争と鉄道

 

 鉄道の歴史上の話題というと、「新線が開通した」とか「新しい車両が登場した」、「新しく列車が新設された」という明るい話題が多くなります。しかし、長い歴史の中では時代を後退させる局面もあります。それが第二次大戦の戦中および戦後です。そこで、社会の動きと鉄道の動きをまとめてみたいと思います。

 前回書きました昭和12年(1937)7月1日時刻改正の直後である7月7日に蘆溝橋事件が勃発し、日中戦争は泥沼化していきます。そして昭和16年(1941)12月8日に太平洋戦争に突入していきます。

 昭和17年(1942)11月15日 関門トンネル(単線)開通と戦時陸運非常体制実施。特急「富士」は東京~長崎間に延長、特急「桜」は格下げし東京~鹿児島間急行となりました。

 昭和18年(1943)2月1日に日本軍はガダルカナル島第一次撤退、さらに7日までに撤退を完了することとなりました。その2月15日、陸運非常体制確立のため優等列車を大幅に削減し、東京~神戸間特急「鴎」は廃止、東京~神戸間特急「燕」は東京~大阪間に短縮されました。7月1日には特別急行を「第1種」、普通急行を「第2種」とし、特急「富士」「燕」、旧「桜」の3列車を「第1種」としました。さらに10月1日には決戦ダイヤを実施し、第1種急行「富士」を東京~博多間に短縮、「燕」は廃止、旧「桜」は第2種急行に格下げとなり、その結果、第1種は「富士」だけとなりました。

 昭和19年(1944)4月1日 決戦非常措置要項実施し、一等車、寝台車、食堂車は全廃、急行列車を削減するも、貨物列車は増発されました。この時ついに東京~博多間第1種急行「富士」が廃止されました。7月7日サイパン島が玉砕。10月11日になって戦時陸運非常体制実施、貨物列車と通勤列車を増発しました。ついに、11月29日にB29が初めて東京を空襲しました。

 昭和20年(1945)1月25日、山陽本線の時刻改正を実施、陸運転嫁と施設破損により列車削減とともに速度を低下させました。3月10日には東京大空襲。8月6日には広島に、続いて9日には長崎に原子爆弾が投下され、8月15日に第二次大戦は終結を迎えます。

 

 宮脇俊三著『時刻表昭和史』では、8月15日に著者が父親と一緒に天童から赤湯、今泉、坂町を経由して疎開先の村上へ帰る予定でした。その途中長井線(現・山形鉄道)から米坂線の乗換駅である今泉駅に11時30分に到着し、その駅前の広場で12時から「天皇の放送がはじまった。雑音がひどいうえにレコードの針の音がザアザアしていて、聞きとりにくかった。生まの放送かと思っていた私は意外の感を受けた」「放送が終わっても、人びとはだまったまま棒のように立っていた」「時は止っていたが、汽車は走っていた。まもなく女子の改札係が坂町行が来ると告げた」と書かれています。その日も汽車は動いていたことが分かります。

 

 鉄道の混乱は終戦後も続きます。

 昭和20年11月20日に戦後初の時刻改正を実施します。旅客列車を約26%増の第1次復活で19年10年の水準に戻りました。しかし、12月15日には石炭不足により旅客列車50%、貨物列車31%を削減しました。続いて12月21日には第2次で旅客列車は更に20%削減、12月24日には第3次で旅客列車を更に13%削減となりました。

 昭和21年(1946)1月11日には石炭事情の好転により、東海道・山陽本線を中心に14本の旅客列車を復活、貨物列車を増発しました。その後2月1日、2月25日、5月1日、6月20日、11月10日の時刻改正により列車本数が増加していきました。

 しかし、昭和22年(1947)1月4日には石炭事情の悪化により、鉄道史上最悪の事態となります。すなわち旅客列車は大幅に削減され、一日の運転キロを13万㎞とし、さらに戦前でもなかった「急行列車全廃」「二等車連結停止」という事態に陥りました。二等車は今のグリーン車に該当します。そして、長距離普通列車が東京~博多間、東京~門司間に設定されました。時刻表は下記の通りで、前者が下り32時間27分、上り32時間55分、後者が下り31時間40分、上り31時間4分でした。1列車では東京で乗車してまる一日たってもまだ広島付近という遅さでした。この最悪の事態は4月24日に解消し、以降正常運転に向かっていきます。 


 昭和18年7月1日に急行列車は「特別急行」、「急行」が「第一種急行」、「第二種急行」に変更されました。時刻表では1列車「ふじ」と7列車旧「桜」の2列車に(第一種)が付記されているのが分かります。この時でも1等車・2等車や洋食堂車・和食道車、寝台車が連結されていたことが分かります。

(『時刻表』昭和18年9月号 東亜旅行社) 

 戦争時の時刻表の牽引地図には「要塞地帯」の表示がされていました。津軽半島、下北半島、陸奥湾などが「要塞地帯」であったことが分かります。そのために「青函航路」の時刻は表示されていません。(『時刻表』昭和19年1号 運輸通信省鉄道総局事務用)

 

 

<6月号記事へ 万沢武夫さんからのメッセージ>

  昭和12年の時刻表とは珍しいですね。昭和初期の寝台車・食堂車は今で言う「上級国民」のためで、下町の庶民には無縁だったかもしれません。華族、高級軍人、官吏、財閥一族などがお得意様だったのでしょう。

さて、寝台車・食堂車の写真ですが、車内の写真ばかりで外観の写真が少ないです。この頃はまだ木造客車がたくさん使われていましたが、寝台車・食堂車は重量があるので、多分鋼製車でしょう。そうなると魚腹台枠と3軸台車だと推測されますが、ぜひその写真が見たいです。

 鉄道車両の写真は機関車、電車が中心で、客車・貨車は少ないですね。