今月のイチオシ本


  小森陽一&浜矩子『大借金男百閒と漱石センセイ』新日本出版 2020年

 

               

                岡本 敏則

 


 内田百閒(1889~1971)は漱石晩年の弟子。センセイの生原稿を手に入れると、そこに鼻毛の列が。漱石は原稿に向かっているとき、鼻毛を抜きながら思案していたのであろう。百閒にとって崇拝しているセンセイの鼻毛も神聖な物なのだ。私は『阿房列車』はじめ百閒の随筆が好きで今は廃刊の旺文社文庫で一揃い持っている。

 百閒は岡山の造り酒屋の生まれ。ぼんぼんだったが、小学校の時家は潰れる。岡山中学から六高(岡山)、東京帝大へと進み、漱石と出会うことになる。ぼんぼん育ちの百閒は金に困ると借金する、高利貸しにも手を出す。質草の期限が来てセンセイに相談すると「利子を払えば流れない」と教わる。漱石はそんなことも知っている。漱石は赤ん坊の時養子にやられ、後に籍は抜いたのだが、元養父に金をせびられる。『道草』に詳しく描かれている。カネには苦労したのだ。

 さて、百閒は早く結婚し祖母、母親、妻、子供を養っていた。インフルエンザに一家が罹り、看護婦(当時)に面倒を見てもらうが、その支払いに困った。センセイに相談すべく家に行くと、湯河原へ療養に行っているという。とにかく湯河原まで行くが残り20銭しかない。馬車が待っていて「乗れ」という。ままよと乗るとそれは漱石が滞在している旅館の迎えの馬車だったので、ただ。センセイに対面して「金を貸してください」と頼むと「ここにはないから家で出してもらえ」と言われ一安心。風呂に入り夕食もご馳走になる。センセイに「ビールを飲んでもいいですか」と聞くと「いいよ」と。ここが百閒のすごいところ。翌朝センセイから50銭銀貨5枚をもらい、玄関には人力車が待っていてそれで湯河原へ。東京へ戻り無事お金は貸して貰えた。

 そこで思い出した。学生時代友人にY伯爵の末裔がいて、ある時「オカモト1万円貸してくれ」と言われ、アルバイトの金が入ったのか持っていたので渡すと「さあ飲みに行こう」という。奢ってもらうのではない、借りた金だが今は自分の金だ。自分の金で飲むという訳。もちろん返して貰っていない。華族はそうやって生き延びてきたのかもしれない。

 本書はこの湯河原での逸話を中心に、両者の対談と、二人の「コラム」が合い間に挟まる。主導権をとっているのは浜氏。コラムを含めて、浜氏の経済学講座を聴いている感じ。

 

 浜矩子同志社大学大学院教授

(1952年生 『どアホノミクスの断末魔』角川新書他多数)

 

 信用創造―カネを借りる人と貸す人がいると、そこに「信用創造」という経済現象が生まれる。それが通貨と金融の世界の考え方です。そして、信用創造があってこそ、カネは本格的に天下の回りものになる。信用創造という言葉は、経済用語としては債権・債務関係の発生を示します。ですが、そこには、実は文字通り信用が創造される。つまり人と人との間に信頼関係が生まれるという作用があるのです。百閒先生と漱石師匠の間の信用創造は実に本ものですよね。何しろ、転地療養中の師匠の枕もとでカネの無心をするのですから。この相対性は凄い。実に正統派型信用創造の場面です。

 熱夢(浜氏の造語)に憑りつかれた地球経済―経済成長をひたすら追い求め、誤解に満ちた経済合理性にとらわれて、自己責任論に振り回されてきた人類は、ムンムンする夢うつつの中を、物凄い勢いで駆けずり回ってきました。グローバル化、IT化をひたすらヒートアップする中で、熱夢に煽られて弾丸ツアーのごとき日々を送ってきました。人々の熱夢が発散する熱気によって、地球は温暖化し、異常気象が広がり、数多くの災害が発生するようになりました。我々の熱夢が地球をへとへとにさせていったのです。やれ、グローバル化だ、IT化だ、フィンテックだ、キャシュレス化だ、そんな具合に騒ぎまくって、焦りすぎ、熱くなり過ぎていたと思うのです。熱しすぎた夢に憑りつかれて、お互いを幸せにすることを忘れ去っていました。熱夢から目覚めよ。神様はそう言われているのではないかと、考えます。

*フィンテック金融(Finance)と技術(Technology)を組み合わせた造語。

 

 小森陽一東大名誉教授

 (1953年生 『漱石論 21世紀を生き抜くために』岩波書店他多数)

 

 実は、夏目漱石(幼児の時疱瘡に罹患)は、自らの小説の中で、作中人物たちの運命を決定する重要な要因として、インフルエンザや腸チフスといった感染症の問題を、繰り返し位置付けています。漱石没後の、第一次大戦の最終段階で、世界中に「スペイン風邪」と名付けられた新型インフルエンザが広がりました。「スペイン風邪」と名付けられたのは、スペインが第一次世界大戦の中立国だったからです。連合国側で1917年に参戦したアメリカ軍を中心に感染が広がりましたが、軍事機密として隠蔽されていたのです。