スエズ運河座礁事故と保険

              松久 染緒


 愛媛県今治市の正栄汽船が所有する大型コンテナ船エバー・ギブン号が、エジプトのスエズ運河で座礁し、400隻以上の船舶が立ち往生した。

 3月29日、1週間ぶりに離礁し、通行できるようになったが、巨額の賠償金を請求される懸念が高まっている。エジプトのスエズ運河庁は「損害額は1,100億円に達し、エジプトには当然、賠償を求める権利がある」と主張している。請求額は約1,000億円と言われる。

 船舶の所有権(船主)は正栄汽船で、運航(用船)者は台湾の長栄海運だ。いったん事故が起きれば多くの関係者に損害が及ぶ船舶や積荷の世界では、15~17世紀のいわゆる大航海時代から近代的な保険制度が発達し、損害保険のはじまりとなった。今回も船舶の修理や救助作業の費用は船舶保険で、スエズ運河の修復にかかる損害や運河の通行料の損失などは船主責任保険でそれぞれカバーされることになる。船舶及びコンテナの積荷に関する損害は、座礁事故による共通の損害をリスクを共有する関係者で分担し合う仕組みの「共同海損」条項により、船舶保険でそれぞれ補償されると思われる。

 

 船舶の運航に伴う賠償責任を担保する保険として、Protection and Indemnity Insurance(船主責任保険、通称P&I保険)がある。船主の賠償責任及び費用を担保するものと海上運送人として荷主に対する船主責任を担保するものがある。P&I保険には、P&Iクラブという非営利相互組織によるものと、一般の海上保険者によるものとがある。我が国では、1950年に船舶の運航に伴って生じる費用及び責任に関する相互保険である損害保険事業を行い、組合員の利益の保護と組合の健全な発展、海運業及び海上関連事業の経営安定の確保向上に資することを目的とする船主相互保険組合法ができた。海上保険者によるP&I保険は、イギリスのロイズおよび保険会社、米国の一部保険会社により引き受けられている。P&I保険の補償範囲は、加入船舶が港湾設備等に与えた損害、救助作業中に他船または財物に与えた損害、船骸撤去費用、油その他汚濁水面清掃費用、加入船舶の曳航契約またはクレーン等使用契約による責任等となっている。今回の事故に当てはまる内容だ。P&I保険が契約されていれば、損害は補償される。

 一方、船舶保険には、第一種から第五種まで五つの特別約款があり、第一種特別約款(全損のみ担保)、第二種(全損及び救助費担保)、第三種(全損、救助費および共同海損担保、衝突条項付き以下同じ)、第四種(全損、救助費、共同海損並びに沈没、座礁、座州、火災及び衝突による単独海損の一定額超過損害担保)および第五種(全損、救助費、共同海損並びに沈没、座礁、座州、火災及び衝突による単独海損担保)である。今回の事故では、第四種又は第五種特別約款が契約されていれば、船舶の損害は補償される。ここにいう「共同海損」とは、「海上航海を共にする財産(船舶及び積荷)を危険から守る意図をもって、共同の安全のために故意にかつ合理的に異常な犠牲を払い、又は異常な費用を支出した場合に限り共同海損行為が成立する」と定義されている。

 

 1869年フランスの元外交官レセップスによって開削・建設されたスエズ運河は、イギリスのアジア支配にとって地政学上重要な要衝であり、古くは地中海東部に権益を持つフランスのルイ14世やナポレオンも運河を計画していた。映画「アラビアのロレンス」で、アラブのベドウィンを指揮してオスマントルコのアカバ砲台の攻略に成功しエジプトの本部へ報告するためシナイ半島を横断したロレンスの目前に現れたのがスエズ運河だった。地中海から紅海を経由してインド洋に至るヨーロッパとアジアを結ぶ最短航路で、アフリカ喜望峰を回るそれまでの航路に比べて、時間も費用も大幅に削減できるものだ。それだけにエジプト政府のドル箱でもあり、今後、保険請求の前提となる賠償問題が決着するまでにはかなりの紆余曲折が予想される。(写真は本文と関係ありません)