大杉良夫「支払担当者の憂鬱」

            人の命の値段と格差


 自動車保険の人身事故支払い担当になってから、密かに抱いていた疑問を今も持て余している。人の命の値段についてである。

 最近の裁判所判決では関越道で事故死した41歳の男性医師の5億2千万円というのがあった。30歳の公務員が大きな後遺障害を負った交通事故では、4億5千万円という金額がはじき出されている。

 いうまでもなく、それらの金額算定の考え方は「ホフマン方式」によるものである。すなわち、被害者が元気で働き続けたらどれだけの収入があったか、を基礎に、事故によって喪失したと思われる額を計算する。損害賠償保険金とは働き手としての命(健康)の値段であり、すなわち、その人の稼ぎ=経済的価値で測られる。

 保険会社への入社も決まっていない学生だった頃の私は、生命保険に対して「人の命をカネで測るのか」という素朴な疑問を持っていた。しかし、生命保険と損害保険のシステムの違いがわかってくると、むしろ、自動車保険で支払われる命の値段の方が、経済格差をあからさまに反映していることを痛感するようになる。生命保険はその人の収入や経済的地位によって保険金額が変動することはない。

 自動車事故で死ねば、人は死後も経済格差を背負い続けなければならない。もちろん、「ホフマン方式」による、失われた収入算定を否定するわけではない。人の命に本来違いはないとはいうものの、せめてお金で補うとすれば、現代社会ではそれ以外に方法がないことも理解できる。だが、常に悩むのは、「人の命の価値はお金で測ることはできない」という理念と、経済格差がそのまま「命の値段」に直結する現実とのギャップがどうしても埋まらないことだ。

 コロナ禍で世界的に経済格差が一層拡大した。世界の1%の経済的強者は、残り99%の人々の資産をすべて合算した額の半分くらいを保持しているという。想像もできないほどの巨大な格差だ。縁起でもない言い方で失礼だが、もし、こういった裕福な人が自動車事故で亡くなった場合の「命の値段」は、果たしていかほどになるのだろうか。

 もちろん「保険金額は無制限」という現在の契約形式はそうした特別な階級が被害者になっても対応できるものになっている。 しかし、自動車事故の被害者は、その圧倒的多数が社会的・経済的弱者だという冷厳な事実がある。経済的最上位に位置する人々は、そう簡単に被害者などにはならない仕組みになっているのだ。