守屋真実
もりや・まみ ドイツ在住27年。ドイツ語教師、障がい児指導員、広島被ばく2世。父は元千代田火災勤務の守屋和郎氏
3月のある金曜日の夜、いつもの抗議行動を終えて自宅最寄りの駅まで帰ってきた。とてもお腹がすいていたので、たまには牛丼でも食べて帰ろうと思っていたら、駅の階段を降りたところで40代位の男性が歩道に座り、ギターを弾いて歌っていた。とても上手だったので足を止めると、向こうも私がギターを担いでいるのに気づき、「お姉さんどんな曲をやるの」と話しかけてきた。
ポップスなら洋物が好きだと答えると、ビートルズのナンバーを弾き始めた。それからエルヴィスになり、ビリー・ジョエルになり、サイモンとガーファンクル、ロッド・スチュワート、はたまたルイ・アームストロングと、リクエストすればなんでも即座に弾いてしまう。途中でその人の先輩だという男性も加わり、通りがかりの若い女性も一人足を止めて、思いがけず4人で即興の路上ライブになった。
ドイツにいた時には、森のはずれの周囲に人がいないところに住んでいたので、よく夜中に一人で大声で歌っていた。日本のフォークや歌謡曲からドイツ民謡、荒木栄やインターナショナルまで思いつくままに二時間くらい歌ったりした。帰国して以来、こんなに気楽に自由に歌ったことはなかったことに気付かされた。そんな時間も場所も、そして心のゆとりもなかったからだ。いつも国会周辺で歌っている闘う歌はもちろん好きだけれど、闘わない歌もいいものだなと思い、とてもハッピーな気持ちになれた。
「プロなの?」とギタリスト氏に尋ねると、「一応これまで音楽でメシ食ってきたんだけど、今は仕事がないから時々こんなところで演奏してる」とのこと。こんなに上手な人がステージに立てないなんて、本人はさぞかし悔しいことだろう。
そのうち先輩氏が私のギターケースにぶら下がっている「I ♡九条」のタグに気付き、思いがけず憲法の話になった。ギタリスト氏が「憲法は変える必要ないっすよね」と言うので、私が「1条以外は優れていると思う」と言ったら、先輩氏も「俺も天皇制はいらないと思うよ」と賛同した。失礼ながら一見憲法に興味を持っていそうに見えない人が、ちゃんと考えて自分の考えを持っているのはうれしい驚きだった。「今年は天皇も出かけないんだから、皇室予算を減らしてコロナ対策に充てればいいのに」などと話が発展して、気が付いたらとっくに九時を回っていた。飲食店は閉店してしまっていたので、夕飯は自宅で食べることにして、ギタリスト氏に千円のカンパを渡して帰路についた。
みんな苦しい時代を懸命に生きている。そして、社会の理不尽さに気付き始めている。コロナ感染症は多くの不幸をもたらしたけれど、一方で今の日本社会のあり方に疑問を呈する人を増やしてもいる。そういう人々の声なき思いを次の選挙に結びつけられたら、世の中を変えられる。危機はチャンスでもあるのは本当だ。
結局ありあわせの遅い夕飯になってしまったけれど、心に翼が生えたような気持ちになれたひと時だった。またどこかで一緒に歌えたらうれしい。それまで元気で、このコロナ禍を乗り越えて欲しいと心から願っている。
社会の調和と安泰に必要な五常の徳は、「仁・義・礼・智・信」だと儒教が教えている。なかでも重要なのが「仁」と「義」である。それは人間が守るべき道徳で、礼儀上なすべき努めのことである。日本人が大切にしている基本的な価値観でもある。
10月10日、公明党は政権を離脱した。
公明党は連立維持の条件として「靖国神社参拝」「裏金問題の解明」「企業献金問題」の対応を連立維持の条件としていたが、これらに対して自民党から明確な回答がなかったからだとしているが、自民党は「一方的に告げられた」と言っている。
私は、公明党が連立の条件を出したとき、その条件に一瞬「今さら?」という気がした。連立を組んで26年、その間、それらは何度も問題になったはずである。それを容認(?)してきたのに、なぜ、今になってそれを頑なに主張するのかと思ったのだ。だが、それは、民意に押されているからだと好意的に解釈していた。
自民党の党大会で、高市早苗が総裁になり、麻生太郎が副総裁になった。常識的に考えると、新総裁はいの一番に連立を組んできた公明党に挨拶に出向き、その上で「今後、どうしましょうか?」と相談するのが筋であろう。
だが、そうではなかった。高市と麻生が最初に会ったのが、国民民主党代表の玉木雄一郎だったのだ。当然、政権協力の話をしたのだろう。
「仁」と「義」に続くのが「礼」である。これも日本人の基本的な価値観で、日本人はこれらに欠ける人間を徹底的に嫌う。
自民党は、支えてくれた公明党に「仁義」も「礼節」も示さなかった。公明党からすればそれは侮蔑されたことであり、屈辱と怒りを感じたはずである。私だって相手がそういう人間なら、さっさと見切りをつけて縁を切るはずだ。
1973(昭和48)年『仁義なき戦い』という映画があった。シリーズで5作創られ、1999(平成11)年「日本映画遺産200」にも選ばれている。
ヤクザを主人公にしているが、ヤクザ映画でも任侠映画でもない。義理と人情、恩義と裏切り、愛と憎悪、怨念と殺戮を描いた群衆活劇で、戦後日本の暗黒社会を描いていた。
石破首相の退陣から総裁選、新総裁誕生と今までの政局をみていると、権力を握るための打算と工作、陰で暗躍する長老たちばかりが目につく。映画は「仁義なき社会は抗争を生む」といっていたが、自民党内部はまるでこの映画のようである。
かつて、自民党と有権者は、政策より義理と人情でつながっているといわれていた。そのころの自民党には、まだ「仁・義・礼」もあったということだろうが、今はカネがすべてのようだ。「五常」の残るは「智(道理をよく知り、知識が豊富)」と「信(情に厚く真実を告げ約束を守る)」だが、自民党はそれさえも失ってはいないか。