松久染緒「随感録」


           中国の「法」とは何か

  1970年代初め、著名な米ジャーナリストH・E・ソールズベリが北京で周恩来に面会した時、周恩来からあなたの専攻は何かと聞かれた連れのハーバード大学の教授が「中国法です」と答えたところ、その場に居合わせた中国政府の要人たちはいっせいに大声で笑いだした。それは当時進行中だった毛沢東の文化大革命で中国に「法」などというものは存在しなくなったことを自嘲する笑いだったのだ。これは50年前のジョークで、当然、現代の中国にも法律はある。

 中国には、中華人民共和国建国の1949年以来1979年まで30年の長きにわたって刑法も刑事訴訟法も存在しなかった。1979年の刑法典と刑事訴訟法典の制定を皮切りに、その後1982年憲法、2007年民事法、行政法などの各分野で立法作業が進み、2020年の民法典の制定を以って中国の法体系全体の基本は完了したという。(小口彦太「中国法」集英社新書)

 ところで中国の四つの基本原則といえば、①中国共産党の指導、②マルクス・レーニン・毛沢東主義思想の指導、③人民民主独裁および④社会主義の道であり、これは憲法の序言に書かれている。うち最も重要なものは1982年憲法以来、①中国共産党の指導と④社会主義の道といわれていたが、鄧小平の改革開放以降、市場経済の本格展開から経済制度が資本主義に転換した結果、①中国共産党の指導のみとなった。

 「国家・社会・集団の利益=中国共産党の指導」というものがすべてに優先し、法源となっている。憲法すら「中国共産党の指導」の下部に位置し、その実質的な判断のもと、外見上は憲法・法律に基づいた判断となっている。極端な例では、拷問の事実がばれるのを恐れて党の要人が直接・間接に関与して執行猶予付きの死刑判決(中国独自)の執行猶予をなくして即執行した。

 いま大問題になっている香港情勢についても、香港国家安全維持法は条文を非公表のまま、かつ同法が対象とする犯罪の構成要件・量刑・裁判手続きすら明らかにしないまま、全人代常務委員会が制定したのだ。

 このような裏の法源もルートが複数あり、①党中央―地方党委員会―国家機関の各党委員会組織、②最高法院―高級法院―各級法院、および③全人代常務委員会法制(工作)委員会―各級法院の三つがあるという。

 2012年の野田政権時代、いわゆる尖閣諸島を民間地権者から購入し、所有権の移転登記をした。このため日中平和友好条約締結時に暗に提起された鄧小平による「棚上げ論」を破棄したとして中国側の猛烈な反発と日中間の深刻な対立を引き起こした。日本の法律では所有権は、物権法で規定された自然人及び法人による物の使用・収益・処分の自由を内容とする権利であるが、中国の所有権は国家的所有権、集団的所有権、個人所有権の3つがあり、うち民法上の権利として構成されるのは集団的所有権、個人所有権及び国有企業所有財産についてのみで、それ以外の鉱物資源、海域、自然資源、都市部の土地等の国有財産は私法上の所有権に属しない。すなわち中国では国有財産の権利は2007年民法(物権法)由来の私権でなく1982年憲法による公権であり、民事上の取引の対象でなく登記や強制執行の対象でもない。したがって中国の法律では国家が私人同様の資格で島を購入し登記をすることなどありえない。この所有権に対する法律の考え方の違いが、尖閣諸島問題の対立の一因だ。

 ところが同時に現代中国法は、清時代の法思想(富を奪い貧を救う公平責任の考え、法と理の厳格さを修正緩和する情の働き)および宋代の法思想(清と逆に、曲直を判するに即ち条法による、事すでに官に至るただ正に理法を以って処断すべきが紛争解決の法規)を共に反映しているという。

 我が国をはじめ、憲法がすべての法規に優先する立憲主義による民主主義各国は、私法、契約、公法、条約、外交などあらゆる分野において中国を相手とする場合には、このように中国法のもつ特殊な構造、複雑な背景と歴史をわきまえて対処しなければならない。