小さいが大きなお金のこと


守屋真実

もりや・まみ ドイツ在住27年。ドイツ語教師、障がい児指導員、広島被ばく2世。父は元千代田火災勤務の守屋和郎氏 


 ある脱原発の会合の後、参加者と食事に出かけた。派遣で働く40代のMさんと私の他は、70歳前後の男性たちだ。

 コロナ自粛で20時に閉店になるので大急ぎで近くの中華料理店に行き、みんなは餃子などをつまみにビールを飲み始め、ノンアルコーリカーの私はラーメンと餃子を少し食べた。それぞれ青年時代から学生運動や労働運動に携わってきた人たちなので、昔の武勇伝に花が咲いていた。

 時間が来て「会計は?」と尋ねたら、「計算が面倒だから千円」と言う。私としては「そんなに食べてないのに」と思わざるを得ない。払えないわけではないから千円札を渡したけれど、釈然としない気持ちで帰路につき、電車の中でその思いを反芻しているうちに、これも「わきまえて」しまったことになるのかなと思ったら無性に腹が立ってきた。

 ドイツでは割り勘という慣習はない。それぞれが自分の飲み食いした分をきっちり払うことに慣れてきたからそう感じるのかもしれないが、派遣社員で仕事が半減しているMさんや非正規雇用で福祉の仕事をしている私が、余裕のある年金生活者の飲み代の一部を負担するのは理不尽だと思う。企業が労働者に毎日数分ずつ無給で働かせたら、一か月後には結構な金額を搾取したことになる。それと同じだ。細かい飲食費をとやかく言わないのは日本的鷹揚さであるかもしれないが、人権や平等を云々する人たちでも、特に飲食に関することになるとかなり無頓着だと感じる。日本にはお金の話をタブー視する傾向があって、それが当然の権利である残業代を要求しなかったり、生活保護を申請しなかったりする人が多い理由の一つでもあると思う。でも、それは富める者を利するだけだ。小さき者の声をすくい上げるには、小さなお金のことを取り上げなければならないはずだ。

 好景気で終身雇用の時代に働いて、60歳から(あるいはもっと早くから)食べていける年金を受給してきた人たちには、ワーキング・プアの現代に働く人の気持ちはわからないのではないかと思う。春闘のベースアップ要求が3000円、つまり一日100円の昇給のために闘わなければならない世代の生活苦を本当に理解しているのだろうか。そんな金銭感覚の違いが、若い人たちが社会運動に入ってこない原因の一つであるかもしれない。

 損保で働く人や働いていた人には、みみっちい話に聞こえるかもしれない。でも、好んでみみっちい生活をする人はいないのだ。そして、みみっちい生活を余儀なくされている人を結集させることができなければ、社会を変えることもできないのだ。