斎藤貴男「レジスタンスのすすめ」


 

 

  民主主義が否定された事実

 

 

 とうとう選挙の争点にもならずじまいだった。東京五輪・パラリンピックにおける政府の対応のことである。

 コロナ禍での五輪開催に対しては、最大時で80%の国民が反対の意思表示をしていた(朝日新聞の世論調査などによる)。それでも強行された経緯は周知の通りで、折しも深刻化していた感染拡大の第5波は最悪の状況に陥り、とりわけ首都圏の医療態勢は崩壊するに至った。千葉県柏市の妊婦が感染したが入院できず、自宅で早産した新生児を亡くした事例が痛ましい。

 それでも政府をはじめ五輪を推進した人々は、感染拡大と五輪は無関係だと言い募る態度を改めようとはしなかった。9月の記者会見でこの点を追及され、「エビデンスでお示しいただきたい」とせせら笑ってみせたのは、東京都の小池百合子知事である。

 結果的に、大会前に懸念されていたような感染爆発は招かれなかった、らしい。「らしい」としか言えないのは、統計や公文書の改ざん・捏造(ねつぞう)が常態化している国にあって、コロナ関係の公表データだけが誠実・正確である保証がないためだが、ともあれ感染者たちが街中でバタバタ倒れていくような光景が、現れていないのは確かだ。そのせいか最近は、東京五輪をやって「よかった」と考えている人が増えてきたと聞く。あれだけの大騒ぎが、何もなかったことみたいな空気さえ、ちまたには漂う。

 だが、こんなことでよいのだろうか。東京五輪が感染爆発に直結はしなかったとしても、それを恐れた民意が無視され、国威発揚の独善を強行突破した政府の姿勢が問われる必要もない、ということにはならないはずである。〃結果オーライ〃は、ただ単に運がよかっただけの話なのだ。

 このままでは、民主主義が否定された既成事実と、それで当然という経験則だけが残されてしまう。近年のこの国には、こういうことが多すぎないか。