損保経営者は薦めそうもない本


 丸山真男『日本思想史における「古層」の問題』(『丸山真男集』第10巻所収)

               

                岡本 敏則

 


 籠る日が多くじっくり本を読むことができる。『丸山真男集』(全17巻岩波書店1996年)もそうだ。深い学殖に裏打ちされた文章は今も新鮮だ。

 丸山真男(1914~1996 写真)の専門分野は「日本政治思想史」。日本思想の古層をなすのが儒学、朱子学。特に「荻生徂徠」「山崎闇斎」を研究対象としてきた。「荻生徂徠の贈位問題」という論考も取り上げてみたいが今回は、慶応大学内山秀夫研究会でのゼミ(1979年10月)『日本思想史における「古層」の問題』(全100頁)からほんの一部を紹介する。

 

 戦後民主主義の理念と現実

 『戦後民主主義というとき、みんな「制度化」されたものを考えているでしょう。完全に、「制度化」された民主主義というのは、実は自己矛盾です。だから「戦後民主主義」の否定とか肯定とかいう言葉自身が、言葉の魔術を含んでいて、つまり、「理念」のレヴェルと「制度」のレヴェルと、それから「制度」が現実にどうワーク(働いて)しているか、という現実政治のレヴェルと、もう一つ「運動」のレヴェルがあって、実際それを弁別せずに、ごちゃごちゃにして、特に「運動」よりは「制度」のレヴェルだけ見て戦後民主主義ナンセンス論というのが出てきたと思います。

 その制度にしても、理念にリファー(言及)しない、議会政治というけれど、それは本当の議会政治になっているのか。どこまで議会政治の制度が、いわんや理念がワークしているのか。それを問うという発想がない。つまり反対している本人にとって見えている現実だけしか頭にない「現実主義」なんです。つまり、理念によって現実を裁く考え方が弱い。議会政治の理念によって、民主主義の理念によって、民主主義の現実を変えていく発想が弱い。革新派もそうじゃないですか、すぐに理念なんて空虚だ、なんて言い出す。理念へのコミットメントが弱い。一つの事実によって他の事実を批判することができない。事実は無限に異なり、細分化されています。理念によってこそ事実を批判できる。それで例えば、「戦後民主主義」の世界におけるヴァンガード(前衛)的な理念はなにかといえば、私は憲法第九条がまさにそうだと思います。これはもうヴァンガードです。だって国家の定義を変える意味が含まれていますからね。今までの国家の定義だったら、日本憲法は国家ではないと言っているんです。つまり武装していない国家は歴史的に言ってこれまでないわけです。だから、外国が攻めてくるとお手上げじゃないかとすぐ言いますね。日本が新憲法の理念をかざして、お前の方こそ古い観念にしがみついているんだと、列強に精神的攻勢をかける以外にないんです。しかも、現実に、国家の定義を変えていく条件は熟してないかと言えば、熟しているんです。アメリカとソ連(現ロシア)は相手の国を完全に破壊するのに必要な核武装の何十倍の核武装を持っているんです。それでもなおナショナル・セキュリティを保証できないという事は、今や核時代に入ると、武装力がかつてのように国家を防衛する機能をもたないということを暴露しているわけです。軍備にたよって国の安全を守るという観念が実は古くなってしまっている。むしろ憲法九条というものは、非常に前衛的な意味があるんですから、それを掘り下げたらいいのです。戸締りがなくてどうするのか、と聞かれたら、じゃあ、どのくらい強い戸締りをすれば安全なんですか、と逆に聞き返せばいいんです。』

 

 ヘーゲルとマルクス

 『カール・シュミットがヘーゲルとマルクスの関係について、どうしてマルクスは資本制社会の解剖にあんなに情熱を捧げたかと。それはヘーゲルの命題を裏返しにしたんだと。哲学はいつもある時代が終末に近づいたころ、遅れて登場して、その時代を把握する。ヘーゲルの場合は非常に観照的で後ろ向きです。哲学が時代をトータルに認識できるのはいつも「後から」だというので、ヘーゲル哲学における保守的要素の一つになるわけです。ところがマルクスはこれをひっくりかえして読んだ。ある時代をトータルに認識することに成功すれば、それ自体その時代が終焉に近づいている兆候を示す。こういう読み方なんです。資本制社会構造の全的な解剖に成功すれば、それは資本制社会が末期だという兆候なんです。』