バラバラで一緒に


守屋真実

もりや・まみ ドイツ在住27年。ドイツ語教師、障がい児指導員、広島被ばく2世。父は元千代田火災勤務の守屋和郎氏 


 首相官邸前の辺野古埋め立て反対スタンディングには歌声が戻った。結局2週ギターなしだっただけで、また歌おうということになった。一応感染防止に考慮してマスクとフェイスガードをつけて歌うので息苦しいけれど、それでもやはり楽しい。家で退屈している母が、ジュゴンの絵のマスクを抗議行動用に作ってくれた。

 こんな時期にギターを持ち歩いていると、「自粛警察」なる輩に嫌がらせをされるのではないかと心配してくれる人もいる。今のところ問題が起きてはいないが、なんとなく冷たい視線を感じることはある。

 

 「ファシズムの教室」(田野大輔著、大月書店)を読んだ。著者は甲南大学の歴史社会学の教授で、2010年からファシズムの体験学習という稀有で果敢な講義を行ってきたそうだ。無論ファァシストを育てるためではなく、なぜドイツ市民はナチスを支持したのか、その熱狂の心理を学生に自ら疑似体験させ、誰もが同様の行動をとってしまう恐れがあることを認識させるためである。

 250人の受講生は、同じ服装に同じワッペンをつけ、この集団を「タノ帝国」と名付け、教授を「総統」と呼ぶ。全員で足を踏み鳴らしたり、行進したり、ナチス式の敬礼で「ハイル、タノ!」と叫ぶ。規律に従わない者(実際はサクラ)を講堂の前に引きずり出して晒し者にしたりもする。このような訓練を一日した後、二日目には外に出て、キャンパスでいちゃついているカップル(これもサクラ)を取り囲み、大声で恫喝して排除する。その時に自分がどう感じたか、どう変わっていったかを学生に内省させることが講義の目的である。 

 恐ろしいことに、始めは躊躇したり恥ずかしがっていた学生が、訓練を繰り返しているうちに熱が入り、次第に喜びを感じるようになる。声の小さい人を「不真面目だ」と感じて叱責したり、三組目のカップルを撃退した後では、達成感すら感じるようになったという。集団に埋没して個人としての責任感を喪失し、逆に多数の中の一人として自我を肥大化させ、他人を罵倒する自由を得たかのように感じてしまうというのだ。事前にナチス台頭の歴史や、同調圧力に関する有名な心理学実験について学んだ学生でも、行動を繰り返しているうちに集団に飲み込まれてしまうのだ。

 これは、まさに「自粛警察」の心理そのものだろう。自己と権力を同一視し、正義を行使しているふりをして、実は個人の欲求不満や負のエネルギーを他者に向けているのだ。こういう人たちが集団を形成したら非常に危険だ。しかし、彼らを愚かだと一蹴することはできない。やり場のない怒りに捕らわれている人々に、その怒りの矛先を向けるべき対象を明確に示せない私たちの力不足でもあるからだ。

 では、暴走する集団と暴走しない集団の違いは何だろう。それは、集団構成員に均一性を求めるかどうかにあるのではないかと思う。

 

 笠木透の歌「平和の暦」に『バラバラで一緒に』という一節がある。始めは「おかしな詞だな」と思った。でも、歌は不思議なもので、何度も歌っているうちに、歌詞の意味が文字面でなく心で感じられるようになってくる。すると、実はこの一節がこの歌のミソだと思えてきた。一人一人違う人間が、違いを持ったままお互いを認め合い、様々な思いの共通項によって繋がりあう、そんな集団なら個人が個人でいられる。

 この文を書いていた時、検察庁法改正案の採決見送りが決まった。まだまだ油断はできないが、ひとまず勝利!ツイッター・デモは素晴らしかった。みんなが「バラバラで一緒に」怒ったからできたことだ。連帯して声を上げれば必ず成果が上がる。この成功体験を胸に刻んで歌い続けよう。

 

   ♫ 戦争を放棄して74年 理想を掲げて74年*

     私たちの平和の暦 みんなの力でここまで来た

     バラバラで一緒に うたえうたえうたえ

     私たちはピース・オールマナック・シンガーズ

 

*オリジナルの歌詞は「67年」。私は憲法施行に合わせてこう歌っている。