自転車にプラカード


守屋真実

もりや・まみ ドイツ在住27年。ドイツ語教師、障がい児指導員、広島被ばく2世。父は元千代田火災勤務の守屋和郎氏 


 まさかメーデーも憲法集会もない5月になるとは思っていなかった。
 昨年12月から続けてきた「桜を見る会」追及集会も、新型肺炎拡大防止のため一時休止となった。毎月19日の国会周辺行動も、4月は取りやめとなった。辺野古埋め立て反対スタンディングは続けているが、仲間内から「歌を歌うのはどうも…」という声が出たので、当面サイレント・スタンディングになった。

 市民運動が権力に従順すぎてはいけないと思うし、ましてや怯えて自己規制してはならないが、人の健康や命に関わる危険を強要することはできない。どこに一線を引くのか、難しい判断だ。歌は、たとえ牢獄に入れられても続けられると思っていたけれど、想像を超えることがあるものだと妙に感心してもいる。
 

 ドイツの友人たちとメールを交わすと、外出禁止は不自由だと言いながらも、「居間の壁紙を張り替えている」とか、「窓辺で野菜の苗を育てている」とか、それなりに生活を楽しんでいるようで悲壮感はない。それどころか、「ドイツの徹底主義が功を奏している」とか、「人命最優先の政策をとってきた成果だ」と、自国の政策に対する誇りすら感じられる。改めて、ドイツはすごい国だなと思う。
 日本国憲法25条には「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と明記されているのに、政府が休業補償や損失補填を出し渋り、家賃や光熱費にも困る人が生まれるのは、明らかな憲法違反だ。間髪を入れずとか、迅速にと言いながらすでに二か月近くも経っている。連休明けには、多くの人が生活に行き詰ってしまうだろう。
 

 それなのに、緊急事態宣言を歓迎する国民が多いことにあきれてしまう。誰かに号令をかけられ、それに従うことは簡単だが、この緊急事態宣言が、さらなる人権侵害につながる危険性をどれだけの国民が認識しているだろうか。また他方では、多くの人が政府の鈍重さに不満を持ちながら、それでも誰かが何かをやってくれるのを待っているだけなのも不甲斐ない。つくづく日本は、民主主義の未熟な国だと思わざるを得ない。
 今がアベ政権を倒すチャンスなのに、ほとんどの集会や行動が中止されているのは悔しい。何か一人でもできることはないかと考えて、ふと思い出したのが金子徳好著「ゼッケン8年」だ。年配の方なら覚えているかもしれない。
 1965年、日本機関紙協会の事務局長だった金子さんが、『アメリカはベトナムから手を引け』というゼッケンをつけて通勤すると宣言したことから始まる日記だ。酔った勢いで言い出した行動が全国紙に紹介され、やめるにやめられなくなり、警官に不審尋問されたり、右翼に絡まれたり、時にはノイローゼ気味になりながらも、ベトナム戦争終結まで8年間も「ゼッケン通勤」を続けた。並々ならぬ勇気と持続力に敬服する。
 ささやかながら、私も先人を見習おうと思い、プラカードを自転車の前かごにつけてみた。コンビニの駐輪場で、見知らぬ男性が「それ、いいね」と声をかけてくれた。ドイツでは、通りに面したベランダの手すりに横断幕を掛けたりするけれど、私道の奥まったところにある私宅ではほとんど見えないのが残念。でも、雨の日には、ビニール傘にスローガンを書いて持ち歩こうと思っている。他にも思いついたら、どんどんやってみよう。民主主義と人権は、一人一人が自分で守る努力を必要とするものだ。
 4月19日、有楽町でのスタンディングで総がかり行動実行委員会の高田健さんが、「たとえ一時的に退却しなければならなくても、前を向いて退却しよう。決して後ろを向いて逃げたりはするまい」という発言をされた。
 その通り! 自粛はしても、委縮はしないぞ!