上手な一人より下手でも十人


守屋真実

もりや・まみ ドイツ在住27年。ドイツ語教師、障がい児指導員、広島被ばく2世。父は元千代田火災勤務の守屋和郎氏 


 いつの間にか今年もあとわずかになってしまった。

 コロナ禍でもなるべく動揺せず、できることをやろうと思ってきたけれど、例年以上に時が経つのが早かったように思うのは、やはりコロナに攪乱されていたからなのだろうか。

 

 それでも、歌の活動では少し進展があった。いくつかの催しに誘われて歌い、思いのほか好評を得て、すでに来年の予定まで入っている。歌って聴かせるのではなく、みんなで歌うという私のスタイルを求めてくれる人々がいると確信できた。11月の国会周辺行動では、牧師さんや若い女性の飛び入りもあり、これまで最多の13人で歌った。

 今年一番うれしかったことは、永田町駅付近で韓国のキャンドル革命の歌「真実は沈まない」を歌っていたら、信号待ちで止まったタクシーの乗客が、わざわざ窓を開けて一緒に歌ってくれたことだ。歌いながら頭を下げて挨拶したら、向こうもうなづき返してくれた。拳をあげて肘から先を振っていたから、韓国の人だったのかもしれない。信号が青に変わるまでの数十秒の連帯だったけれど、心に残る出来事だった。もう一つは、首相官邸前で「たんぽぽ」を歌っていた時、やはり信号待ちをしていた自転車の青年のつま先が曲に合わせて動いていたこと。私の位置からは後ろ姿しか見えなかったのだが、少し離れたところにいた仲間は「口も動いていたわよ」と喜んでいた。こういう小さなことで笑い合える仲間ができたことが何よりの成果だ。

 私は、一人が上手に歌うより、下手でも十人が歌う方がいいと思う。歌に限らず何もかもが細分化、専門化して行き、高度な技術や高価な機材を使うことが評価される時代に、安物ギター一台で、みんなが歌えるシンプルな曲を選び、楽譜が読めない人も音痴の人も大歓迎というアヒルの合唱スタイルは絶滅危惧種かもしれないけれど、私たち雑草は生き延び、繁殖すると信じている。

 

  なんという胸の痛みだろうか

  あまりに世界が傷つきすぎた

  自由を求め さまよい続け

  野に果てるとも 明日を信じて*

 

 コロナ禍は、人類の共存という最も重要なテーマを真剣に考える絶好の機会になり得たはずなのに、感染症対策が一部の利権あさりに利用されたり、香港のように弾圧の道具に使われたり、世界はあまりにも歪んでしまっている。冬を迎えて、路上で暮らす人の辛さは想像に絶する。非正規労働者や女性や障がい者、難民など社会的弱者がますます追い詰められていくのは見るに堪えない。人の命を守ることを後回しにして、学問の自由を侵害したり、原発再稼働を進めたりするサイコパス内閣にこの国の政治を任せることはできない。

 だから、毎年同じことを書いているけれど、やはり来年こそは、今度こそは、社会を変えたいと願わずにはいられない。 

 

 

*「なんという胸の痛みだろうか」 作詞・作曲:ヴィオレータ・パラ、訳詞:上田達夫