暇工作「課長の一分」

           政治的とは一体なんぞや?


 テレビ朝日の労働組合が、加盟していた民放労連から脱退した。

 「民放労連は政治的発言が多い」というのが脱退の理由だという。

 民放労連は損保の労組(全損保)とも縁が深かった。春闘の決起集会などに有名女子アナがやってきたこともあったし、テレ朝で長らく報道番組の司会を務めた久米宏さんは、TBSの若手社員だった頃、民放労連の青年婦人部長を務めていて接点があった。

 

 さて、「政治的発言が多い」という理由づけは、損保でも産業別単産からの脱退時に使われたし、いまも、組合活動に対する言いがかりの一つだ。

 

 「政治的発言」云々がいかにナンセンスな言いぐさであることか。賃上げ闘争だって労働条件向上のたたかいだって、間違いなく政治性を帯びている。戦争や平和について語るのが政治的というなら、日本が曲がりなりにも戦後75年間戦争をしてこなかったのは、労働組合などが「反戦平和」の旗印を降ろさず、国民にアピールし続けたことも大きく寄与していることを噛みしめてほしいものだ。その歴史的意義・重さに対して、中身のない一般論としての「政治的」批判を展開するのは、あまりにも軽々しい。

 

 最近、それを実感した出来事があった。暇たちが、ある損保会社の労働者支援のため、当該本社ビルでビラ入れ行動を行ったときのことだ。自ら人事部の幹部と名乗る社員が出てきて、ビラの欄外に書かれた「私たちは集団的自衛権行使にNOです!」のスローガンを見つけて「これは政治主張だ。組合は経済活動だけをやるものなのに、政治活動をしている。ビラ入れは認められない」という。もちろん、会社が「政治的」を理由に労組の活動に干渉することは、「政治的」とは何ぞや、という問題を別にしても、労組への支配介入の不当労働行為であって許されるはずもないことではあるが。 

 

 厳密に言えば、世の中に政治的でないものなど一つもない。だから「政治的」というレッテルを張ること自体、そもそも意味のないことだ。