損保経営者は薦めそうもない本


   松村博司校注『大 鏡』(岩波文庫)

 

               

                岡本 敏則

 


 新型コロナのおかげか、たっぷり本が読める。積んどいた本が随分たまり、このご時世がなければ、読まないままあの世に逝っただろう。その本の一冊が『大鏡』。歴史書と言っていいのだろうか、藤原氏族の歴史(言い伝え、フイクションを交え)を初代中臣鎌足(614~669天智天皇から藤原姓と大紫冠を賜った)から藤原道長(966~1027)の時代までを描いた書。

 注釈を見ながら「原文」(外国語だと原書となる。変だね)で読んだ。『大鏡』と呼ばれてはいるが、原名は明らかではない。慈円(1155~1225 父は藤原忠道太政大臣)の『愚管抄』では「世継が物語」、兼好法師(1232~1352)の『徒然草』では「世継の翁の物語」となっている。

 本書は190歳の大宅世継と180歳の夏山繁樹という老人が歴史を語る、という形式をとっている。日本は「世継ぎ」が好きだ。歌舞伎では十二代目市川團十郎、落語でも六代目圓生、茶道では裏千家十六代家元とか。まあ国会議員も世継ぎが多く、安倍は3代目、小泉進次郎は4代目、河野太郎は3代目、国会議員を家業としている。さて、読んでいるとこういう表現が出てくる。太政大臣藤原為光の条では「このおとど(為光)は九条殿の御九郎君(九男)・・御男子七人・女君五人おはしき。(をんな)二所(二人)は佐理の兵部卿の後いもうとのはら、いま三所(三人)は一条摂政の御むすめのはらにおはします」とあり、「はら」と直截の表現を昔の人は使うのだ。公卿にとって大事なのは、自分の娘を天皇の后にして,皇子を産ませ、その皇子が天皇になり、自分は天皇の外祖父として、幼い天皇の摂政になることだ。藤原兼家(929~990)は娘の詮子を円融天皇の后に送り一条天皇の外祖父になった。道長も娘彰子を一条天皇の中宮として送り、後一条、後朱雀天皇の外祖父になった。そしてえっと思ったのは,第五巻一太政大臣道長の条を読んでいた時だ。

 「天智天皇いとかしこくときめかしおぼして、我女御一人をこのおとど(鎌足)にゆづらし給つ。その女御ただにもあらず、はらみ給にければ、みかどのおぼしめしのたまひけるよう、『この女御のはらめる子、男ならば臣が子とせん。女ならば朕が子とせん』とおぼして、かのおとどにおほせられけるやう、『男ならば、大臣の子とせよ、女ならば、わが子にせん』と契らしめ給へりけるに、このみこ男にてむまれ給へりければ、内大臣(鎌足)の御子とし給」。その御子が藤原不比等。「御子の右大臣不比等のおとど、実は天智天皇の御子也。この不比等のおとどの御名よりはじめ、なべてならずおはしましけり。『ならびひとしからず』とつけられたまえる名にてぞ、この文字は侍ける」。並びなき者なしのこの不比等がこの後連綿と続く藤原氏の祖である。藤原氏の氏神は春日大社、氏寺は興福寺である。春日大社に祀られている天児屋根命(アメノコヤネノミコト 天児屋根命は天照大神の神勅による皇統無窮を揺るがぬ原則とし、それを維持するために大神と約定した)を祖先とする藤原氏族は明治維新以後今日も天皇家の藩屛(はんぺい 天皇家を守護する)としての役割を担っている。