損保経営者は薦めそうもない本


   保坂正康『東条英機と天皇の時代』ちくま文庫 

       

                岡本敏則

 


 

 著者は5年の歳月をかけ、関係者からの聞き取り、膨大な資料を読み込み本書を上梓した。単行本で上下、この文庫本も700頁、びっしり活字で埋まっている。
 
東條家は旧南部藩藩士、南部藩は奥羽越列藩同盟を結び最後まで官軍と戦った。禄を失った英機の父英教は下士官養成機関である陸軍教導団歩兵科に入団した。英教は刻苦奮励し陸軍大学第一期生に入学。13人が陸軍士官学校卒、その他は英教一人であった。英教は中将まで上り詰めたが、生涯たたき上げとしか見られなかった。そんな父を見て英機は猛勉強し幼年学校、陸士、陸大とエリートコースを歩んだ。

 英機の転機は関東軍憲兵隊長に赴任したことだろう。抗日分子を殲滅し、その後関東軍参謀長になった。参謀本部から関東軍参謀副長に赴任してきたのが生涯のライバル、そして恐れてもいた石原莞爾であった。英機は1941年石原を予備役に追いやった。首相になると英機は憲兵をフルに使い近衛文麿、吉田茂等を反戦分子として決めつけ敵視し監視を続けた。
 
開戦から敗戦までは省いて、極東国際軍事裁判に移る。1945年9月11日午後4時英機を連行するためMPが用賀の家に来る。英機は応接間で拳銃で胸を撃ち自決をはかる。しかし弾丸は心臓を外れた。普通拳銃自殺するときはこめかみを撃つといわれる。後々まで卑怯者というレッテルを貼られた。A級戦犯として裁判にかけられたのは、陸海軍人、外交官、官僚、民間右翼など28人。彼らは巣鴨プリズンに収容された。池袋サンシャイン横の公園に石碑がある。1946年敗戦から初の天皇誕生日を迎えると、プリズンの収容者たちは広間に集まり、宮城に最敬礼し「君が代」を斉唱して聖寿
萬歳を三唱した。天皇の人間宣言はプリズンの中ではタブーとされていた。同年5月3日裁判開始。極東軍事裁判所検察局は55項目の訴因を上げ、各被告は30から40項目で起訴されたが、英機は50項目で起訴された。19481112日判決。死刑判決を受けたのが、土肥原賢二、広田弘毅、板垣征四郎、松井石根、武藤章、木村兵太郎、東条英機。同年1223日午前零時、武藤、土肥原、松井、東條の4人は処刑場に向かう前に松井の音頭で「天皇陛下萬歳」「大日本帝国萬歳」を三唱した。遺体はすぐに横浜の久保山火葬場で荼毘に付された。処刑の翌日A級戦犯容疑者19名が釈放された。児玉誉士夫、大川周明、笹川良一、そして岸信介。1959年伊豆に「七士の碑」が建てられた。署名は吉田茂。1978年秋、7人は密かに靖国神社に合祀された。(根拠は、政府が7人は国内法で裁かれたのではない。ゆえに刑死ではなく法務死であると認定したため)昭和天皇は、東條については直接語ったことはない。しかし「一説では、絞首刑の判決が下された日、天皇は目に涙をためていたともいわれている」。