雨宮処凛の「世直し随想」

              底の抜けたこの国で

 この7月で、相模原事件から3年となる。

 あの日の衝撃は、今も覚えている。「19人殺害」というニュース速報に目を疑った朝。事件現場が障害者施設だと知った時の驚き。いつまでたっても報じられない被害者の名前や人物像。そして逮捕された容疑者が、施設の元職員だと知った時の言葉を失う感覚。だけど心のどこかで思った。「とうとう」と。どこかで、こんな事件が起きるのではないかと予感していたことに気づき、そのことに動揺した。

 だけど静かに、確実に状況は進んでいたと思うのだ。2000年代はじめに広まった「〇〇人は殺せ」というようなヘイトデモ。「在日特権」という言葉や「嫌韓嫌中」ブーム。書店に並ぶ、ベストセラーのヘイト本。自民党議員が率先してあおる生活保護・貧困バッシング。杉田水脈衆院議員が「生産性」なんて書くずっと前から、この国には「生産性がない者には生きる資格なし」というメッセージがまん延していた。

 相模原事件の2カ月後、フリーアナウンサーの長谷川豊氏が「自業自得の人工透析患者なんて、全員実費負担させよ! 無理だと泣くならそのまま殺せ!」とブログに書いた。炎上したものの、「膨大な医療費」を理由にその意見を支持する者もいた。相模原事件に対しても同様に、「日本は少子高齢化で借金だらけなんだから命の選別は仕方ない」と、やはり支持を表明する者がいる。

 「人の命をお金で語るな」という言葉すら空回りしそうなほど底の抜けた社会で、何から始めればいいのか、戸惑っている。