みんなで歌おうよ④  「心はいつも夜明けだ」


守屋真実

もりや・まみ ドイツ在住27年。ドイツ語教師、障がい児指導員、広島被ばく2世。父は元千代田火災勤務の守屋和郎氏 


 

719日、早いもので、父・守屋和郎が亡くなって丸6年が過ぎた。

 

父が他界した後、被爆体験を詳しく聞いておかなかったことがとても悔やまれたので、ちょうどその時期に都庁でやっていた「東京の被爆者展」を見に行った。会場で、広島の被爆者だという男性がにこやかに声をかけてくれ、しばらく話しているうちに、「僕は最後の広島一中生です」と言った。ということは、父より三学年下ということになるので、「それなら父をご存知じゃないですか。守屋といいます」と名乗ったら、まじまじと私を見つめ、「サッカー部だった?FBの背の高い人?」と尋ねた。私が「そうです」と答えると、「守屋先輩の娘さんか」と、とても喜んでくれた。広島一中は原爆で教師と生徒350人余りを失ったが、父も所属していたサッカー部は驚異的な速さで再起し、48年には全国優勝したのだ。(当時は新制鯉城高校)「よく名前まで憶えていましたね」と驚いたら、「そりゃそうだよ。他に楽しいことなんか何も無かったんだから」と少し悲しげに言った。この人は、日野市被爆者の会会長のKさんだった。不思議なめぐり合わせで、父が引き合わせてくれたのかもしれないと思った。

 

 後の手紙のやり取りの中でKさんは、広島は原爆で火攻めにあい、同年9月の枕崎台風で水攻めにあい、それから兵糧攻めにあったことを教えて下さった。戦争が終わっても、生き延びた人々は、どれほどの苦しみと悲しみに耐えねばならなかったことだろう。

 

 考えてみれば、父の人生は失望と落胆の繰り返しだったのではないだろうか。軍国少年として育てられ、被爆と敗戦を経験し、戦後は180度価値観を変えて平和と人権を守る活動に精力的に加わったが、三池闘争にも60年安保にも敗れた。原水協は分裂し、全損保も分断された。70年代には東京、大阪、京都に革新系知事が生まれ、社会が変わるかと思えたが、それも希望通りにはならず、むしろ歴史を逆行させる政治が続いてきた。それでも闘うことを止めなかった心の強さは、驚愕と賞賛に値する。父は共謀罪法や戦争法の成立を見ることなく逝ったが、もし元気で生きていたら、間違いなく闘ったことだろう。父ばかりでなく、幾多の苦渋にもあきらめず、希望を持ち続けた人々が、今日まで平和憲法を守ってきてくれたのだ。先人が守ってくれたものを、私たちが闘わずして放棄してはいけないと思う。

 

 私は、毎月19日の国会周辺行動の前に青山霊園にある解放無名戦士の墓を訪れ、父が好きだった歌を歌っている。

 

 心にゃ夜はない いつも夜明けだ*

 

これは父の墓参というより、私自信を鼓舞するための儀式のようなものだ。あきらめず行動し続ければ、いつかきっと働く者が平和で豊かに暮らせる社会が来ると信じている。

 

 

 

*「心はいつも夜明けだ」永山孝作詞 荒木榮作曲