福田耕治さん

 

                      

ふくだ・こうじ/慶応義塾大学から1959年千代田火災入社。同社社長、全損保千代田火災支部委員長、全損保本部副委員長など歴任。趣味はゴルフ(ご本人は「イモ堀り、または玉転がし」と謙遜するが)と、来るもの拒まずの酒席

 

 


戦後民主主義の申し子としての誇りもって


 福田さんには聞きたいことがあった。
 一つは、労働組合の幹部時代に産別単産・全損保の分裂、という未曾有の難局に直面し、知力を振り絞って統一と団結のために奔走された体験。
 もう一つは、企業経営者のトップとして、統合合併という時代の大波に直面し、産業・企業・従業員をどう守り抜くかで悩みぬかれた、その思考経路と体験。
 労働者としての奮闘と、社長としてのそれ。一つの人生の中で、異なった立場で迎えた二つの課題。福田さんは、それを、どのようなスタンスで対応したのか。その二つに共通する哲学とは何か。
 

 
 その問いに対する答えは、取材の過程で自然に浮かび上がってきた。まずは、戦後民主主義教育の申し子としての福田さんという存在だ。同時に、福田さんを包む環境としての千代田火災における、人を人として認め、相互に分け隔てなく尊重しあう文化である。
 福田さんの個性と、財閥系損保には見られない企業風土の中で大切に育成された独特の香りを放つ民主主義的思考。これこそが、福田さんの生きざまを貫く一本の糸であった。
 


 全損保は1966年秋の23回大会で分裂の危機を迎えた。そこでの、議事運営委員長・福田さんの調整能力の高さと地道な努力は語り草である。その一つが、企業組合的発想が根強い「支部代表代議員」と、横断的思考の「地協代表代議員」の抜きがたい対立を、「支部・地協代議員代表者会議」を設定することで融和を図ろうというアイディアであった。分裂は避けられなくとも、十分な議論を尽くそうという民主主義優先の発想だ。その努力もあって大会中の分裂は避けられ、新組織「損保労連」の発足は翌年4月になった。
 


 千代田火災社長時代の統合・合併劇では、トヨタ、大東京火災との調整に力を尽くした。
 「複雑な情勢でしたが、最後は、トヨタの傘下に入るか、大東京火災と統合するか、どちらを選択するかでした」と率直に当時を振り返る。その過程で福田さんが模索したのは、大東京火災だけでなく、日産火災や日新火災、富士火災などとの「中小損保の連携」だった。思いは実らなかったものの、損保再編成の軌跡に、産業民主主義という信念のキーワードを刻んだ。
 


 福田さんは中国からの引揚者である。彼の地で爆撃の中を逃げ惑う体験もした。父親の「この戦争は負けるよ」という言葉もよく覚えている。帰国した鹿児島県の小学生時代には、「生徒をパートナーとして純粋に民主化教育に魂を打ち込む」という若い教師の教えを受けた。福田さんは、いまも同級生たちと顔を合わせるたびに「民主主義の申し子としての誇りをお互い自認しあっている」と、日経新聞1999年9月30日号「交遊抄」に記している。
 「民主主義」こそは、自身の骨の髄まで沁み込んだアイディンティティなのである。
 福田さんは「損保9条の会」設立にも、陰で一役買っている。「もし、平川博君(元千代田火災取締役人事部長、全損保千代田支部委員長、損保9条の会呼びかけ人)が『損保9条の会』の呼びかけ人を引き受けなかったら、私がやるつもりでした」

 平和への思いも半端ない。

(文と写真 伴啓吾)