損保経営者がけっしてすすめない本


 

        金子兜太『わが戦後俳句史』(岩波新書)

       

                岡本敏則

 


 2月20日は金子兜太氏の1周忌でした。
 氏が揮毫した「アベ政治を許さない」は今も集会やデモで掲げられています。氏は1919年埼玉県秩父で生まれました。父は開業医で俳句結社を主宰し、「秩父音頭」を作詞するなど文化人でした。
 37年旧制水戸高校に入学。この頃から句作を始める。41年東京帝大経済学部に入学し、加藤楸邨主催の『寒雷』に参加する。尊敬する俳人は中村草田男。
 繰上げ卒業で43年日本銀行に入行。面接官は戦後総裁をつとめた佐々木直氏。「一句書き給え」と言われ『裏口に線路が見える蚕養かな』を書くと、「なかなかやるじゃないか」と褒められる。
 同年海軍経理学校に入学、翌年主計中尉となり、トラック島に赴任する。8月15日に詠んだ句。『海に青雲生き死に言わず生きんとのみ』。 米軍の捕虜となり46年11月復員。日本銀行に復職する。『墓地も焼け跡蝉肉片のごと木々に』。
 塩谷皆子と結婚、翌年長男「真土」誕生。『独楽廻る青葉の地上妻は生みに』。 日本銀行従業員組合に積極的に参加、49年事務局長(専従)となる。「なあなあ式の御用組合ではない。きっぱりした、それこそ労働組合らしい組合をと考え、学閥人事の廃止をよびかけ日銀の近代化を目指した」。 『銀行員等朝より蛍光す烏賊のごとく』。時はレッドパージの時代、日銀当局は組合活動家を排除し、「それに便乗する者がいたのも、これは当然のことでしょう」。組合を退き福島、神戸、長崎と転勤。
 54年「第五福竜丸」ビキニ環礁で被爆。『電線ひらめく夜空久保山の死を刻む』。長崎時代、『原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ』。この句は賛否両論を呼び、一かけらの詩もない、と評する人もいた。
 1960年東京に戻る。まさに安保闘争の渦中。『デモ流れるデモ犠牲者を階に寝かせ』。74年日本銀行を定年退職、前衛俳人として生きた。