斎藤貴男「レジスタンスのすすめ」
認知症は自己責任か
『社会は変えられる』と題された本がある。昨年6月に国書刊行会から出版された。著者の江崎禎英(よしひで)氏は現役の経産官僚だが、帯には〈超高齢社会の「処方箋」〉とあった。畑違いでは、と訝りながらページを繰ると――。
書き出しから社会保障制度の危機を訴えている。ただし問題は年金ではない、深刻なのは「国民皆保険」だ、現行制度は医者にも患者にもその家族にも優しすぎる、という。
国民皆保険とは、誰もが何らかの公的保険に加入し、いつでも医療給付を受けられる仕組みのこと。ところが著者曰く、もともとは結核などの感染症から労働者を守り、経済成長を維持するための制度であって、死に至る感染症の流行が激減した以上、もはや時代遅れなのだ、という。
主たる疾患は感染症から生活習慣病に移ったとして、糖尿病、がん、認知症の3つを挙げて、どの病気もつまるところ患者自身の自己責任だと言っている。認知症の項にある〈町内会やボランティア活動に積極的な高齢者ほど認知症になりにくく、会長などの役に就いている人は、さらにそのリスクが小さくなる〉などという、巷に溢れているような与太話も、著者の立脚点を前提に読めば、行間に隠された主張がわかってくる。
そう、著者の江崎氏は、社会保障の世界では知らぬ者のない自己責任論者であった。その情念を買われて厚生労働省と内閣府の政策統括官を兼任しており、現政権が進める「全世代型社会保障改革」の中心人物でもある。母体の経産省ではキャッシュレス化、すなわち監視社会へのレールを敷いていく商務・サービス課の課長だ。
自民党はそして、早期の提出を目指して「尊厳死」法案の策定を急いでいる。狙いはもちろん、合法的な殺人による社会保障費の削減だ。
これらの情報をどう受け止め、行動すべきか。断じて許してはならないと、私は思う。
社会の調和と安泰に必要な五常の徳は、「仁・義・礼・智・信」だと儒教が教えている。なかでも重要なのが「仁」と「義」である。それは人間が守るべき道徳で、礼儀上なすべき努めのことである。日本人が大切にしている基本的な価値観でもある。
10月10日、公明党は政権を離脱した。
公明党は連立維持の条件として「靖国神社参拝」「裏金問題の解明」「企業献金問題」の対応を連立維持の条件としていたが、これらに対して自民党から明確な回答がなかったからだとしているが、自民党は「一方的に告げられた」と言っている。
私は、公明党が連立の条件を出したとき、その条件に一瞬「今さら?」という気がした。連立を組んで26年、その間、それらは何度も問題になったはずである。それを容認(?)してきたのに、なぜ、今になってそれを頑なに主張するのかと思ったのだ。だが、それは、民意に押されているからだと好意的に解釈していた。
自民党の党大会で、高市早苗が総裁になり、麻生太郎が副総裁になった。常識的に考えると、新総裁はいの一番に連立を組んできた公明党に挨拶に出向き、その上で「今後、どうしましょうか?」と相談するのが筋であろう。
だが、そうではなかった。高市と麻生が最初に会ったのが、国民民主党代表の玉木雄一郎だったのだ。当然、政権協力の話をしたのだろう。
「仁」と「義」に続くのが「礼」である。これも日本人の基本的な価値観で、日本人はこれらに欠ける人間を徹底的に嫌う。
自民党は、支えてくれた公明党に「仁義」も「礼節」も示さなかった。公明党からすればそれは侮蔑されたことであり、屈辱と怒りを感じたはずである。私だって相手がそういう人間なら、さっさと見切りをつけて縁を切るはずだ。
1973(昭和48)年『仁義なき戦い』という映画があった。シリーズで5作創られ、1999(平成11)年「日本映画遺産200」にも選ばれている。
ヤクザを主人公にしているが、ヤクザ映画でも任侠映画でもない。義理と人情、恩義と裏切り、愛と憎悪、怨念と殺戮を描いた群衆活劇で、戦後日本の暗黒社会を描いていた。
石破首相の退陣から総裁選、新総裁誕生と今までの政局をみていると、権力を握るための打算と工作、陰で暗躍する長老たちばかりが目につく。映画は「仁義なき社会は抗争を生む」といっていたが、自民党内部はまるでこの映画のようである。
かつて、自民党と有権者は、政策より義理と人情でつながっているといわれていた。そのころの自民党には、まだ「仁・義・礼」もあったということだろうが、今はカネがすべてのようだ。「五常」の残るは「智(道理をよく知り、知識が豊富)」と「信(情に厚く真実を告げ約束を守る)」だが、自民党はそれさえも失ってはいないか。