暇工作「課長の一分」


  社員の評価規定

ある損保社で差別的勤務評価を受けた社員が裁判に訴えた。年収が前年より百万円単位でダウンしたことも重大だが、加えて、その評価基準のいいかげんさが許せなかったのである。「どうしてそんな低評価になったのか」納得できる説明もないまま、切り捨て御免だったのである。

会社側は原告側の「社員の評価規定、基準を明示せよ」という求めに対して、反応が極めて鈍かった。規定はあるのか、ないのか。あるけれど出したくないのか。出したくてもないから出せないのか。ハッキリした態度を示さなかった。

おそらくはまともな規定はなかったのだろう。社員の評価は会社の恣意的な判断でやっていたのではないかと疑わせるに十分な態度だった。法の定めなしに為政者が気まぐれに民衆を裁き、断罪していた前近代とどこが違うというのだろうか。

かなり時が経過してから、会社側は「評価規定」をやっと提出してきたが、それは、端的に言えば社員の「目標管理規定」みたいなものだった。つまり社員の評価を行う原点は「目標達成」だというのだろう。では、その「目標」はどのようにして決められるのか。それは会社と社員の面談で練り上げられていくのだが、実質は社員の側が「高い目標」を押し付けられることにならざるをえない。低い目標を示せば「やる気のなさ」でその時点ですでに失点である。高い目標を設定すれば到達点との乖離が大きくなる。いずれにせよ、これは社員を雁字搦めにする典型的な成果主義システム、一方的なルールであって、到底「評価基準」などと言えるシロモノではない。運用の客観性、公平性などがどう担保されるのかも皆目わからない。

それに、この「評価規定」は法違反の可能性すらある。「規定」が社員にどう周知徹底されていたのかという点だ。社員にいつどのようにして公示されたのか誰も知らない。「規定がある」ということは、その内容を社員がきちんと認識できる状態を保証されていることが前提だ。後出しじゃんけんはダメだ。

そんな職場の在り方に、敢然と異議申し立てを行った社員が現れたのである。いま、表立って支援を表明する同僚はいないというけれど、彼の勇気を歓迎している隠れ支持者は多い。裁判の成り行きもさることながら、問題意識を共有する社員たちと、これからどのように手を組んでいけるかがポイントだろう。