損保経営者は薦めそうもない本


   布留川正博『奴隷船の世界史』岩波新書

                奴隷貿易と保険業の深い関係

       

                岡本敏則

 


 「我々はメイフラワー号でこの国に来たのではない。奴隷船で連れてこられたのだ」

 これは1965年暗殺された米国公民権活動家マルコム・Xの言葉だ。12世紀~14世紀、イスラーム世界はヨーロッパよりも優れた学問や技術、産物を持っていた。ヨーロッパの知識人はイスラーム世界に対し大いなる劣等感を抱き、これを払拭するために大航海時代に乗り出していった。航海術、造船技術が飛躍的に向上し、それが奴隷貿易の引き金になった。1441年ポルトガルが最初の奴隷船を出航させた。イギリス・フランス・スペイン・オランダなどが続き、出航地はリヴァプール、ナント、カディス、アムステルダム、リスボンなど。西アフリカの風上海岸、黄金海岸(現在のナイジェリア、カメルーン、ガーナ、ギニア、セネガル、シエラ・レオネなど)でアフリカ人を調達した。貿易先は南北アメリカ、カリブ海の島々。現在の米合衆国、ブラジル、ベネズエラ、ガイアナ、キューバ、ハイチ、ジャマイカ、プエルト・リコなど。何人ぐらいのアフリカ人が奴隷として連れてこられたのか、米国歴史家のカーテインによれば1000万人超。奴隷船の大きさは、100200屯。長さは2427m、幅が67.5m。そこに数百人の奴隷を積み込んだ。男性奴隷は下甲板、平甲板に2人づつ手首足首を鎖でつながれ寝かされていた。ちなみに「遣唐使船」(630894年)は平均300屯で長さは30mであった。

 

 奴隷船は「移動する監獄」、「浮かぶ牢獄」と呼ばれ、2カ月以上に及ぶ航海中は毎日16時間以上身動き一つできず板の上に寝かせられていた。航海中は伝染病を防ぐために何度か海水や酢、煙草の煙によって洗浄された。「商品」である奴隷の死亡を出来る限り少なくするという「経済効率」のためであった。奴隷貿易の出資者は、貴族、商人、聖職者、地主などで、奴隷は「積荷」として保険(英国のロイズなど)がかけられた。

 保険業の発展は奴隷貿易と密接なかかわりを持っていた。1771年英国籍のゾング号事件が起きた。440人の奴隷をすし詰めにしたゾング号は伝染病で60人の奴隷が犠牲となった。感染の拡大を恐れた船長は「自然死の奴隷は船主の損失となる。生きたまま海に投げ込めば保険会社の損失となる」と114人の奴隷の手を縛り海に投げ捨てた。英国に帰港したゾング号の船主は奴隷一人当たり30ポンドの保険支払いを裁判に訴えたが敗訴。これが奴隷貿易禁止の世論となった。奴隷解放運動の担い手は、クウェイカー教徒と英国国教会福音主義派であった。奴隷貿易は1866年キューバでの禁止により400年の幕を閉じた。が、現在も奴隷がいる。動産奴隷制、債務奴隷制、契約奴隷制で全世界で4580万人と報告されている。