斎藤貴男「レジスタンスのすすめ」


 

 

          佐々木投手不登板のこと

  高校野球の岩手県大会決勝に、大船渡高のエース・佐々木朗希投手は登板しなかった。最速163キロ。世界的な注目を集めている彼の肩やヒジを案じた国保陽平監督の配慮と伝えられる。はたして甲子園へのキップを手に入れたのは、相手の花巻東高だった。

 このことが大きな話題になった。大打者だった張本勲氏と、現役メジャーリーガー・ダルビッシュ有の舌戦は、とりわけ激しかった。

 

 張本氏がテレビ番組で「さらなる成長のためにも投げさせるべきだった」と発言すれば、「(登板回避は)佐々木君の未来を守った勇気ある行動」と、ツイッターでダルビッシュ。大先輩への礼節の問題をさて置けば、理はダルビッシュにあるのだろう。一般の支持も圧倒的に強いようだ。

 

 実際、当事者らが納得しているのなら、それでいい。彼らは世間のためにプレーしているのではないからだ。

 ただ、ダルビッシュの主張こそ絶対の正義とされつつある社会の側に、私は違和感を拭えないでいる。そこには選手の健康に対する気遣いというより、たとえばメジャー入りすれば何億ドルを産み出す「金の卵」を、「たかが日本の高校野球ごときで」といったふうな価値観が透けて見える気がするからだ。

 

 これもまた、新自由主義のひとつの表れなのか。だとすれば、私は遠い昔に読んだ『巨人の星』の主人公・星飛雄馬の言葉のほうが好きだ。甲子園で利き手の指の爪を割り、打たれて評価を下げる前にマウンドを降りちまおうかと思った次の瞬間、我に返った飛雄馬は自らに言い聞かせる。

 

 「みんな 燃えている! なのに おれだけが 巨人の星などと 先の計算を

 「そのとき そのときに 全力をつくせぬやつに なにが 未来だ ゆめだ! 巨人の星だ!」

 

 他人に押しつけるつもりは毛頭ない。だが私は、これからもそうやって生きていきたい。